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2012月8月19日
 アラビア半島中央部    (サウジアラビア王国ナジュド地方)

ナジュドの歴史                             著: 高橋俊二
 History of Najd



 

 

ナジュドの歴史

(集落の発祥からサウジ公国成立まで)

 

 高橋 俊二

 

2004930

改訂 201285

 

目次

前書き

1. 紹介

1.1 ナジュドとは

1.2 ナジュドの行政区

1.2.1 ジャバル・シャンマル

1.2.2 カスィーム

1.2.3 スダイル

1.2.4 アリードとヤマーマ

1.2.5 ハンク

1.2.6 アフラージュ

1.2.7 ワーディー・ダワースィル

1.3 ナジュドのベドウイン族

1.3.1 シャンマル

1.3.2 ハルブ

1.3.3 アテバ(ウタイバ)とムテール(ムタイル)

1.4 トルコ帝国のナジュド行政区

1.5 アラビア語のカタカナ訳

1.6 ヒジュラ暦の西暦化

1.7 地名の主な由来

2. 先住集落

2.1 中央アラビアでの定住と遊牧の分離

2.2下ナジュド最初の農業定住

2.3 駱駝の家畜化と遊牧の始まり

3. アラブの出現(1,300BC-200AD)

3.1アラブとは

3.2 アラブの文字

3.2.1 南セム語(South Semitic)

3.2.2 サムード(Thamudic)

3.2.3 アラム語(Aramaic)

3.2.4 古代アラビア語

3.3 陸上交易路上の都市

4. ハジュル・ヤマーマ(Hajr Al-Yamamah)からイスラームの始まり(200BC-634AD)

4.1 ビザンチンとサーサーン朝ペルシア(Byzantium and Sasanian Persia)

4.2 タスム(Tasm)とジャディース(Jadis)

4.3 バヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)の到着

4.4 キンダ族(Kinda)連合

4.5 ハウザ(Hawdha)、アシャ(al-A'sha)およびムサイリマ(Musaylima):王族、詩人および偽預言者

5. イスラーム・ハジュル(634AD-1446AD)

5.1 ウマイヤ朝時代(The Umayyad period)

5.2 アッバース朝時代(The Abbasid period)

5.3 ハジュル(Hajr)とヒドリマ(Khidrimah)のバヌー・ウハイディル(Banu al-Ukhaydir)

5.4 ハサー(al-Hasa)のジャブリード(Jabrids)

6. 集落の再成長(涸れ谷ハニーファの部族生活(1446AD-1600AD)

6.1 新しい定住者とハジュル(Hajr)の衰退

6.2 町部の社会構造

6.3 土地の保有

6.4 農業

6.5 遊牧および半遊牧の部族

6.6 遊牧民と定住民の関係

7. 改革の喚起(涸れ谷ハニーファの町(1600AD-1745AD)

7.1 ミアカル(Mi'qal) 

7.2 環境条件

7.3 ディルイーヤ(Dir'iyyah)とウヤイナ('Uyaynah)

7.4 ムクリン(Muqrin)からリヤード(Riyadh)

7.5 ナジュドでの宗教者と知識人の復活

7.6 改革運動の誕生

後書き

 

 

前書き

 

昨年12月に紹介した「ナジュドの自然」の続編として今回は「ナジュドの歴史」と云う題名でその歴史をウィリアム・ファセイ (William Facey)著の「古都リヤード」からの抜粋を中心に紹介したい。イスラーム以前は暗黒時代と呼ばれ歴史として殆ど紹介されて居ないと聞いて居たし、実際にサウジアラビア国内で英文が入手出来るのは考古学的文献か第一次サウジ公国成立以後の歴史ばかりでその間に関する書物は英文以外でも見当たらなかった。

 

西暦1996年から2003年の間、私が従事して居た沙漠緑化に関する学会で発表される研究でも英文はごく限られ、殆どはアラビア語であった。沙漠緑化に初心者の私はこれが特殊分野である様に受け取っていたが、アラビア語の研究ではごくありふれた一般的な農業分野として扱われて居りその文献の豊富さは半端では無い。ナツメ椰子に関する文献だけでその400種以上に及ぶ各品種の特徴、株分け、水遣り、組織培養等百科事典何冊分もの研究論文が出版されている。考えてみれば農業の行われている地域の少なくとも半分は乾燥地帯であり、近代科学の基礎と成ったイスラーム教国の自然科学がその重要産業である農業を研究するのは自明であった。その自然科学が歴史を無視する筈も無く、アラビア語の歴史に関する文献はある筈だと思っていた。

 

その後、今年の3月に紹介した「海のシルクロードの中継地・沙漠の辺境ジャウフ(Al-Jawf)」でその抜粋を使わせて戴いた「ジャウフ」を著作され、1943年から1990年までジョウフ州知事であったスダイル氏(Amir 'Abd al-Rahman bin Ahmad al-Sudairi)に設立されたスダイル財団(The 'Abd al-Rahman al-Sudairi Foundation)2000年から年二回発行し始めた歴史同好誌である雑誌アドゥーマートゥーを購読し、その内容の大半がアラビア語で書かれて居り、サウジアラビア国内に歴史に興味のあるサウジ人有識者の多い事も知った。

 

ウィリアム・ファセイ (William Facey)著の「東部州」と云う著作を読んで「それ程長くサウジアラビアに滞在したとも思えないウィリアム・ファセイが何故暗黒時代と云われている部分の歴史に触れられるのか」を不思議に思っていた。この「ナジュドの自然」で本篇と同じくその抜粋を使わせて貰った同氏の著書「古都リヤード」では資料と成ったアラビア語の書物も紹介して居り、イスラーム教国以来の自然科学の伝統は間違いなく残っている事が分かった。その著者の参照していた資料を中心にこの篇の終わりに参考資料、訪問者および資料提供機関を列記した。

 

スダイル氏が「ジャウフ」の中で引用している年代記はアッシリア時代だけでは無く、近代になっても書かれて居り、その間のものが見つかればアラビアにキリスト教やユダヤ教が一般的であった暗黒時代と云われている頃の歴史も更に明らかに成るのだろう。但し、後述するがイスラームに成っても多神教が信仰され続け、それがシャイフ・ムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブ(Shaykh Muhammad ibn 'Abd al-Wahhab)の改革運動を必要とした事を考えると日本人の神仏の様な感覚に近い宗教的には緩やかなと云うか曖昧さの残るキリスト教やユダヤ教或いはそれらから改宗したイスラーム教の普及であったのかも知れない。それでも現在のサウジアラビアではこの国にキリスト教やユダヤ教が存在した事を否定するサウジ人も多いし、実際にその存在を公表しているのはナジュラーンの博物館くらいでハイバルやウラー等でユダヤ教徒が最後まで抵抗した歴史は一般的には公にされて無い。「この時代を余り拙速に解明するのでは無く、イスラームの擁護者であるサウジアラビア王国の国家形態を尊重する中で慎重に行われるべきだろう」と私は考えるのでここでは深くは触れて居ない。

 

1. 紹介

 

これまでアラビア半島の歴史は他の中東地域と較べほとんど注目されて来なかったし、肥沃な三角地帯の偉大な文明の存在で影も薄かった。イスラーム歴史に関してもその教えがここから広まったにもかかわらず、半島の外にあるイスラーム拠点に重きが置かれて来た。古代文明として興味を引く一般的に知られているエジプト、メソポタミア、ペルシア、アッシリア、ヒッタイト、ビザンチン、サラセン等の周辺地域の歴史と較べても、環境的に厳しく生産力の殆ど無いナジュド(Najd)と呼ばれる中央アラビアの歴史は地味な存在である。仮にそうであってもこの歴史は東西交易を知る上では重要であるし、私には十分に魅力がある。

 

私自身ナジュド(Najd)の中心とも言えるリヤード(Riyadh)のディルイーヤ(Dir'iyyah)地区に住み、涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)の散策を毎週の様に行って居たにもかかわらず、改めてナジュド(Najd)と言われる地方が何処なのかと云う疑問を持ち、調べてみる事にした。

 

関連図面と写真

 

ナジュド地方

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アラビアの隊商路

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下ナジュド概略図

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下ナジュド東部

‘ArmahからのIrq Banban遠望    Rawadt KhuraymからDahnaを眺める

 

Rumah付近のRawdat Khraym

 

涸れ谷ニサーフ

 

 

Dirab Golf Club      Lake Qararahと隠し谷の間の砂丘

 

 

Lake Qararah北側の砂丘    Lake Qararah北側の砂丘2

 

 

Wadi Nisahの隠し谷    隠し谷の尖峰

 

ファイサル尖峰

 

涸れ谷ハニーファ

 

 

Dir’iyyahの廃屋     Najdの典型的な井戸

 

 

水汲みの駱駝          驢馬の脱穀

 

W.Hanifahの流れ

 

トゥワイク山脈の北の台地

 

 

J.Tuwaiqの鷹       Ruwaydah付近の崖地と駱駝

 

 

Ruwaydah付近の谷の駱駝      Sadus付近のAmmonite

 

 

メッカハイウェイの急な切り通し     リヤード城(Qasr Riyadh)

 

1.1 ナジュドとは

 

ナジュド(Najd)の北はナフード(Nafud)沙漠であり、東はダフナー沙漠(Ad Dahna)で遮られ、南は空白地帯沙漠(Rub' Al Khali)で、西はヒジャーズ・アシール(Hijaz-Asir)山脈で遮られている。その経緯度は北緯20°から28°で東経41°から48°で東西880km、南北720kmの範囲であり、サウジアラビアが1963年に全土を西部州(Hijaz)、中央州(Najd)、西南州(Asir)と東部州(Hasa)の四州に分けた内の一つでもある。(現在では14州制に成っている。)

 

百科辞典的な説明では「ナジュド(Najd)はサウジアラビアの中央部であり、首都リヤード(Riyadh)の所在地である。ナジュド(Najd)は標高762mから1,525mの高原であり、その東側(下ナジュド)にはオアシス(Oasis)集落が多く、全体にはベドウイン(Bedouin)が疎らに散らばって遊牧生活を営んでいる。この地域は西暦1899年から1912年にかけてイブン・サウード(アブドゥルアジーズ・イブン・アブドッラフマーン・イブン・サウード(Abdul Aziz ibn Abdul Rhaman ibn Saud))の率いるワッハービ(Wahhabi)軍団がオスマン帝国(Ottoman Empire)から戦い取った地域であり、西暦1932年にイブン・サウード(Ibn Saud)が設立したサウジアラビア(Saudi Arabia)の一州と成った」となる。

 

1.2 ナジュドの行政区

 

ナジュド(Najd)の主な行政区にはジャバル・シャンマル(Jabal Shammar)、カスィーム(Qasim)、スダイル(Sudayr)、ワシュム(Washm)、アリード(Arid)、アフラージュ(Aflaj)、ハンク(Hank)、ヤマーマ(Yamamah)およびワーディー・ダワースィル(Wadi Dawasir)がある。

 

1.2.1 ジャバル・シャンマル

 

ジャバル・シャンマル(Jabal Shammar)はその中で最も北にあり、その主要な集落は外翼のジャウフ(Jawf)、タイマー(Taima)およびハイバル(Khayber)にも多少あるが主にアジャー山塊(Jibal Aja)とサルマー山塊(Jibal Selma)の間にある長さおよそ70kmの谷間に位置している。ジャウフ(Jawf)、タイマー(Taima)およびハイバル(Khayber)は勿論ナジュド(Najid)地方の範囲を越えているが、昔はシャンマル公国の属領であった。この公国はムハンマド・ラーシド(Mohammed Al Rashid, 1869 - 1897)が全ナジュド(Najd)の支配者(Amir)として西暦1892年からその死の1897年まで君臨した時代に最も栄えた。「この町は城壁で囲まれアミールの城が卓越している。城は少し陰気ではあるが堂々と建物であり、城壁はかなり高く六つの塔を備えており、全体としてフランスかスペインにある様な城の本丸に見える」と云う記録もある。

 

ハーイルはアジャー山塊(Jibal Aja)とサルマー山塊(Jibal Selma or Jibal Salma)の二つの連峰に夾まれた谷の北の端にあり、アジャー山塊(Jibal Aja)から3.2km離れ標高は1,000mである。私がハーイル(Hayil)を訪問する時に定宿としているジャバライン・ホテル(Jabalain Hotel)の名はこの二つの連峰のある地方に因んで付けられている。双子の連峰の西側で高い方のアジャー山塊(Jibal Aja)の最高峰は海抜1,402mである。この谷の幅は32kmで乾燥した峡谷が幾つもその中を横切り、火山性の概して低いリッジ(Ridge)が点在している。飲料水と灌漑用水とも水源としては井戸と泉に頼っている。主要作物はデーツ(棗椰子の実)、小麦、大麦や農園作物であり、飼料や薪は非常に少ない。西暦1893年に人口はおよそ一万から一万二千であった。

 

ジャバル・シャンマル(Jabal Shammar)のその他の集落としてはジャファファ(Jaf’fa)とムケルク(Mukelk)がアジャー山塊(Jibal Aja)の北側の麓にあり、カスル(Kasr)とカフガル(Kafgr)はその南側の麓にあり、ラウダ(Rauda)、ムスタジタ(Mustajidah)およびフェド(Fed)はサルマー山塊(Jibal Selma)の麓であり、各々3,000人から5,000人の住人が居た。ウクダ(アクダ)(Akda or Uqdah)はアジャー山塊(Jibal Aja)の山中にある小さな村でハーイルから騎乗で一時間掛かる。この村は1835年から為政者であったラシッド家の一番古い領地であり天然の要害であった。

 

1.2.2 カスィーム

 

カスィーム(Qasim)はジャバル・シャンマル(Jabal Shammar)の東にある北ナジュド(Najd)の最大の涸れ谷ルマ(Wadi Rumah)の谷間に広がっている。その主要都市であるブライダ(Buraydah)とウナイザ(Unayzah)それぞれ涸れ谷の南北両側に位置し、16km離れている。西暦1880年頃のウナイザ(Unayzah)は品揃いのある店舗を伴い日干し煉瓦の城壁を持った清潔で立派に立てられた城塞都市であった。多くの住民が町の城壁外の数時間も掛かる農園の中に住み、ブライダ(Buraydah)とウナイザ(Unayzah)にはそれぞれ一万人位の住人がいた。下カスィーム(Qasim)での涸れ谷ルマ(Wadi Rumah)の乾いた河床の幅はおよそ3.2kmであり、ナツメ椰子の畑に縁取られている。地下水面は乾季には深さ1.8mから2.4mで冬場には井戸から水が溢れ出て来る。主な農産物はナツメ椰子の実(date)であり、8月か9月に実が熟する。果樹や小麦、トウモロコシやキビの畑が村々を取り巻いて居たが耕作の範囲は人工的灌漑の可能な範囲に制限されていた。上カスィーム(Qasim)の主な村々はカハファ (Kahaf’a)、クスバ(Kusba)およびクワラ(Kuwara)であり、下カスィーム(Qasim)ではウナイザ(Unayzah) 、ブライダ(Buraydah)、マドナブ(Madnab)、アウユン(Ayun)およびラッス(Ar Rass)である。

 

トゥワイク山脈 (Jabal Tuwaiq) の北の台地

 

カスィーム(Qasim)から少し南下してナフード・スワイラート(Nafud al-Thuwayrat)砂丘帯を登り降りしながら曲がりくねった道で横断すると石灰質のトゥワイク山脈 (Jabal Tuwaiq) の北の台地の下にあるズィルフィー (Zilfi)に着く。もともとは住民が自ら切り開いて作ったと云うこの砂丘地帯の道は夜になると対向車も確認できず、駱駝との衝突の危険が多いので今でも交通の難所である。その為に夜明け待ちで余り居心地の良く無いズィルフィー・ホテル(Hotel Zilfi)に何度か私は泊まった事がある。石灰岩質のトゥワイク山脈 (Jabal Tuwaiq)は台地全体が迷路の様に概して険しい崖を持つ谷で人工的に切り取った様に刻まれている。この数え切れない窪地にナジュド(Najd)の豊かな集落が集中して居る。農園や家々、耕作地や村々がその深い谷の間に隠され、トゥワイク山脈 (Jabal Tuwaiq) の北の台地上の乾いた石灰岩の平原を行くと突然に鮮やかな緑の塊が足元に見えて来る。スダイル(Sudayr)はこの台地の北の外れを形成し、アリード(Arid)が南の端を形成している。台地の西側にはワシュム(Washm)が横たわり、アフラージュ(Aflaj)とハンク(Hank)が南と南西にそれぞれ広がっている。

 

1.2.3 スダイル

 

スダイル(Sudayr)の中心はマジュマア(Majma'ah)であり、華麗な農園や樹木に囲まれた広く浅い谷の中の小高い場所に位置する城塞都市でこの地方の昔の首都である。近傍には著名な鍾乳洞があり、JICAのスタッフであった友人が案内して貰ったと言う。現在のマジュマア(Majma'ah)はリヤード(Riyadh)からキング・ハーリド(Kind Khalid)軍事都市の脇を通り、ハファル・バーティン(Hafar al Batin)からクウェイト(Kuwait)へ向かう街道が分岐する交通の要所で相当規模の広がりがある緑豊かな町である。カスィーム(Qasim)へと下る台地の端には城塞の代わりに今では2基の巨大な白い水タンクが周囲を威圧する様にそびえている。現国王を含むスダイル・セブンと呼ばれるサウジ政治の中枢を占める7人の同腹である殿下達の母方のスダイル家はこの地方の出身である。

 

1.2.4 アリードとヤマーマ

 

アリード(Arid)へは樹木と潅木に覆われた3.2kmから4.8km幅の側面が絶壁になった幅広い谷の涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)へサダウス(Sadus)から入る。この進路に沿ってウヤイナ(‘Uyaynah)の村々やディルイーヤ(Dir’iyyah)が横たわっている。その少し南に下った左岸の崖上の台地に私が1998年から2003年まで5年間住んでいたワハ・コンパウンド(Al Waha Compound)が広がっている。ディルイーヤ(Dir’iyyah)はかつてのワッハービ派(Wahhbi)の首都であり、西暦1817年にイブラーヒーム・パーシャー(Ibrahim Pasha)に破壊された。その数キロ東にはアミール・ファイサル(Amir Faisal)が修復し西暦1863年には新しいリヤード(Riyadh)が建っていた。この当時でも「リヤードは2万人を越える人口が居り30を越えるモスクと品揃いのあるバザールを持ち、良く灌漑された農園とナツメ椰子畑に囲まれた大きな町であった」と記述されている。谷の南は木立と村々が点在するヤマーマ(Yamamah)大平原が開けていた。その中にリヤード(Riyadh)よりずっと小さいマンフーハ(Manfuhah)がある。

 

1.2.5 ハンク

 

更に南東方面にはハウタ(Hawtah)を行政府所在地とするハンク(Hank)行政区がある。ハウタ(Hawtah)はこの方向ではナジュド(Najd)で最後の集落のある地域でその南の沙漠地帯(Rub' Al Khali)との境界地帯である。現在のハウタ(Hawtah)は大きな町では無いがハルジュ(al Kharj)から南下して行くと砂丘の上に一際白く美しい建物が並ぶ町で、そこからトゥワイク山脈 (Jabal Tuwaiq)を横切る切り通しの一つである涸れ谷ハウタ(Hawtah)がトゥワイク山脈の西側の砂丘地帯ナフード・ダヒー(Nafud ad Dahi)まで抜けており、その途中の集落は駱駝さえ見掛けなければ日本的でさえあり、狭い山間に畑や集落が箱庭の様に並んでいる。

 

1.2.6 アフラージュ

 

リヤード(Riyadh)から南西130kmにあるハルファ(Kharfa)に行政府を置くアフラージュ(Aflaj)行政区はスダイル(Sudayr)やヤマーマ(Yamamah)と比べると住人が少ない様であり、十九世紀後半にはその住人の大半は黒人との混血であったと言う。今ではその中心の町ライラ(Layla、夜)は短めのトーブを着て黒い顎髭をサンタの様に伸ばしたムタワ(Mutaween)(原理主義者で宗教警察のボランティア)が多く、「ハーイルの自然と旅」で紹介したムスタジタ(Mustajidah)の様に大半は黒人と云う町では無くなっているし、中規模な円形農場に囲まれた豊かな農村である。

 

1.2.7 ワーディー・ダワースィル

 

隣のワーディー・ダワースィル(Wadi Dawasir)へは320kmで、同じく十九世紀後半にはその道沿いにナツメ椰子の葉で作った掘っ立て小屋の村々が散らばって居た。ライラ(Layla)とワーディー・ダワースィル(Wadi Dawasir)についての詳細は今年の7月に紹介した「空白地帯と呼ばれる沙漠ルブア・ハーリー(Rub' Al Khali)」を参照して戴きたい。

 

1.3 ナジュドのベドウイン族

 

ナジュド(Najd)の残りの部分を占拠するベドウイン(Bedouin)はシャンマル(Shammar)、ハルブ(Harb)、アテバ(ウタイバ)(Ateba, Uteibah, Otaiba or ‘Utaybah)およびムテール(ムタイル)(Muter, Mutair, Mutayr or Mtayr)4つの部族から主に構成されていた。

 

1.3.1 シャンマル

 

シャンマル(Shammar)はナフード沙漠(Nafud)の南端を先祖の故郷とする大シャンマル(Shammar)族の内の一部族である。大シャンマル(Shammar)族の北の分族はメソポタミア(Mesopotamia)に移住している。この部族の多くは町部に定着したけれども部族全体としては依然としてベドウイン(Bedouin)の性格を強く残して居り、その近年における首領がナジュド(Najd)で一番勢力の強かったアミール・ムハンマド・ラーシド(Amir Mohammed Al Rashid)であり、一年の大半を自分の部族民と共に沙漠で過ごしていた。現摂政で皇太子アブドッラー殿下の母方はこのシャンマル(Shammar)族であり、長年にわたって同殿下の支配下にある国家親衛隊のほぼ半分はこの勇猛で知られる部族である。

 

1.3.2 ハルブ

 

ハルブ(Harb)はおそらくアラビア半島のベドウイン(Bedouin)では一番大きな部族である。この部族は多くの分族に分かれて居り、そのいくつかはヒジャーズ(Hijaz)のオアシスに定住しその他は遊牧生活を送っていた。その領域はカスィーム(Qasim)からマディーナ(Madinah)の間の草原であり、マディーナ(Madinah)とマッカ(Makkah)の間の巡礼路を横切って居たので巡礼を保護する事でトルコから莫大な補助金を得ていた。

 

1.3.3 アテバ(ウタイバ)とムテール(ムタイル)

 

アテバ(ウタイバ)(Ateba)が遊牧の為に巡回する範囲はヒジャーズ(Hijaz)の境界からカスィーム(Qasim)方向の道に沿ってマッカ(Makkah)まで広がっていたし、ムテール(ムタイル)(Muter)はカスィーム(Qasim)からクウェイト方面の沙漠を占拠していた。

 

1.4 トルコ帝国のナジュド行政区

 

ナジュド(Najd)は名目上西暦1871年にミザイ・パシャ(Midhai Pasha)がハサー(al-Hasa)に小さな守備隊用の砦を設けた時にはトルコ帝国の属領になり、バスラ(Basra)政府の下にナジュド(Najd)と云う名でフフーフ(ホフーフ)(Hofuf)に行政府を置く新たな行政区が設けられていた。しかしながら実際的な独立には影響せず、ハーイル(Hayil)のアミール(Amir)であるムハンマド・ラーシド(Mohammed Al Rashid, 1869 - 1897)とリヤード(Riyadh)のアブダッラー・サウード(Abdallah Al Saud)(Abdul Rahman ibn Faisal al Saud,1850 – 1928)が西暦1892年まで西ナジュドと東ナジュドをそれぞれ支配していた。ムハンマド・ラーシド(Mohammed Al Rashid)がウナイザ(Unayzah)で勝利し全ナジュドの支配者となったがその後継者であるアブドゥルアズィーズ・ラシード(Abdul Aziz Al Rashid, 1897 - 1906)はその地位を保つ事が出来ずにトルコの支援が有ったにもかかわらず西暦1905年イブン・サウード(Ibn Saud)の手によって手酷く敗退し少なくともその覇権をリヤード(Riyadh)に奪われてしまった。

 

19世紀での正確な人口を推定する資料は無いが、おそらく百万人でその内の三分の二が定住民で残りの三分の一が遊牧民かベドウイン(Bedouin)であった。

 

1.5 アラビア語のカタカナ訳

 

アラビア語の音訳には幾つかの細い説明を必要とするが常である。しかしながら、私は厳格な正確性よりは一般的な利便性を優先した。英語への音訳の原則は例外もあるが区別の為の点や長母音記号を省略するアラビア研究の方式であり、アラビア語には口元での発音と喉の奥から顎まで使って出す発音が有り厳格に区別し、例えば大きなT、S、H等と小さなt、s、h等と言っている。しかしながら私の日本語への音訳でのカタカナ訳する場合に簡便の為にこの区別を省いた。少し独善ではあるがhおよびrの前の音は長音にqaqiqu...はガ、ギ、グ...に音訳した。母音が短母音、長母音、二重母音が各三つで上記の様に子音に二種類で30以上ありそれを子音19のカタカナで表現するのは無理であり、多少でも発音が分かる様に英語への音訳を併記した。但し、アイン(΄)やハムザ(')は示した。発音が既に一般的である例えばサウド(Saud)、アブドッラー(Abdullah)、リヤード(Riyadh)やターイフ(Taif)等の普及している名前の発音はそのままにして親しみのある尺度として残した。但し、以前にリヤードで同じコンポウンドに住み、今はジョルダン勤務の鬼頭学氏から私の音訳の欠陥は既に指摘されては居り、何れは改善しなければと考えている。

 

(注)ここで音訳と述べているのは転写であり、201285日の改訂では2012730日付けの「砂漠の半島に関する固有名詞(アラビア語から日本語への転写)」に基づき、全て修正した。

 

1.6 ヒジュラ暦の西暦化

 

ヒジュラ暦(Hijri)の日付が必要で無い限りは分かりやすい様に西暦(Gregorian)での日付を使ったので1年程度のずれが出てくる場合もある。ヒジュラ暦を使う場合は始めにそれを記して対応する西暦を付け加えた。

 

1.7 地名の主な由来

 

この篇では地名が多くその全部の由来を調べる事はとても出来なかった。又、辞書で引いても同じ綴りを探すのは難しく語幹から類推したものもあるが、何れは地名の由来についても詳しく調べて行きたい。

 

ダワースィル(Dawasir) トゥワイク山脈の山脈がダムの大決壊の様に広く大きく洗い流されている場所なので語幹通り押すと云う意味なのだろう。氷河が溶解する過程で氷に閉ざされて居た大きな湖が一気に決壊するとこの様に山脈を突き崩した地形が出来ると云う。

 

ラウダ(Rauda,Raudah or Rawdah) 池を含む緑地からなる集水構造の浅い沈泥窪地で果樹園の意味にも使われる。リヤードの北西近郊にあるラウダ・フライム(Rawat Khuraym)がその様な場所の典型。

 

リヤード(Riyadh) ラウダ(Rauda)の複数形

 

ハルジュ(Al-Kharj) 鞍袋

 

アフラージュ(Al-Aflaj) カナート(Qanate or Qanat)或いはカレーズと云う井戸を掘って底を横穴でつなげた地下水道の複数形

 

ジャウウ(Jaww) 窪地、ワーディー(涸れ谷)の谷底

 

ディラム(Dilum or Dilam) 魅力、征服

 

ヤマーマ(Yamamah): 四世紀後半にイエメンのヒムヤル族(Himyarite)の侵略の際に十字架に掛けられた女預言者の名

 

涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah or Wadi Hanifa): バヌー・ハニーファ一門に因んだ名で旧名は涸れ谷イルド(Wadi Al 'Ird)

 

ハーイル(Ha'ir) 混乱、狼狽

 

シャクラー(Shagra' or Shaqra) 色白、顔色の良い

 

サルミダー(Tarmida) 燃える眼

 

ドゥルマー(Durma) 燃える

 

ムザーヒミーヤ(Muzahimiyah) ライバル、競合者

 

ディルイーヤ(Dir'iyyah or Dir’aiyah) 武装した町

 

ウヤイナ(Uyainah or Uyaynah) 無脊椎動物の単眼の意であるが語幹には目の他に泉と意味があり、泉に関連した地名と考えたい。

 

ジュバイラ(Jubailah) 静寂

 

サルブーフ(Salbukh) ラボクがミモザ(アカシア)の意なのでアカシアの多い場所の意味か。

 

マルハム(Malham) 霊感

 

マジュマア(Majma'ah) 集会場

 

ズィルフィー(Zilfi) おべっかい、接近、誇張等に関連するので地形の複雑さを示す意味なのでは無いかと思う。

 

ブライダ(Buraydah) 語幹に郵便と冷たさの両方の意があるが冷たさに関係した意味に思われる。

 

ウナイザ(Unayzah) 雌山羊(好色や悪魔、淫乱を意味するので敬虔なモスリムの多い場所の名として相応しくないので別の意味かも知れない。)

 

シャンマル(Shammar) 集めて持ち上げるの意

 

ムスタジタ(Mustajidah) 乞食、物乞いの意

 

ハナーキーヤ(Hanakiyyah or Hanakiyah) 現世的な経験で洗練された賢明さ

 

2. 先住集落

 

現在分かっている人間集落が一番早く中東で発展したのは10,000年前頃である。狩猟と集団社会では食糧となる植物の作物化、動物の家畜化が次第に始まった。作物化や家畜化に伴い人々は季節的に移住した場所から永住する集落へと移り始めた。そこでは人々は初期の形の小麦、大麦、豆等の作物の種蒔きや収穫を行い、山羊、羊それに後には牛等の家畜を飼育出来た。この様な村々の一番早期の遺跡はイラク、シリア、パレスタイン、ジョルダン等の肥沃な三日月地帯、エジプト、トルコそれにイランに見られる。これらの地方の環境は定住に最適であった。定住と人口密度の増加に伴い社会の階級化が進んだ。時として共同社会の祭祀も司る指導者達も出現した。今日の経済生活の基礎と成っている労働者と熟練者等の階級分化を導いた技能の専門化の過程が始まった。

 

しかしながら近隣地域の一般的傾向の影響を受けながら余り良好とは言えない環境条件の下でアラビアの社会は発展した。従ってその社会は近隣地域と著しく異なった方法で進化した。中央アラビアや北アラビアでは主に半定住或いは遊牧生活に移行した新石器時代の社会の萌芽となった新石器早期の狩猟や採集の生活からの進化にこの過程が影響として現れている。新石器時代の社会では牧畜がゆっくりと発達する中でも狩猟は依然として重要であったが、農業はそれ程重視され無かった。紀元前5,500年から3,500年を頂点として紀元前7,000年から3,000年まで続いた新石器時代湿潤期に入り、豊かな三日月地帯の様にナジュドの農業も発展し始めた。

 

更に中央アラビア・ナフード(Nafud)の南の後期新石器時代社会ではその北の銅石時代の社会と異なって紀元前2,000年頃まで陶器を使わない生活が広く残って居た様だ。時代と共に牧畜が発展し家畜の数が増えて来た。山羊、牛、平尾の羊そして増大する駱駝を飼育する一方で狩猟が主要な糧として残っていた。(ここで云う羊は座布団をぶら下げた様な脂の詰まった平らな尾の羊で、食用飼育が一般的なサウジアラビアでは大半がこの厚い平尾の羊である。)優れた石の彫刻と共に精巧な鏃、刃やその他の石器がハーイル(Hayil)西北西のジュッバ(Jubbah、長袖で前開きの長衣)や西ナジュド(Najid)のマディマーの東にあるハナーキーヤ(Hanakiyyah)がこの文化の遺跡として残っている。時にはストーン・サークル群やその他の石で作った構築物が見つかっているし、鏡はナフード(Nafud)北部の多くの場所で発掘されている。

 

一番注目される遺跡はリヤードの北でそれ程遠く無いスマーマ(Thumamah)井戸群近くのアルマ台地('Armah Plateau)上にある。ここでは乾燥した石造りの円形壁に大きな村の遺跡が発見されている。穀物をすりつぶす為の手引き臼や見事に薄く削った石槍の穂先等の道具が農業、牧畜と狩猟が混在した経済を証明している。この遺跡は紀元前5,000年期から紀元前4,000年期の物と考えられている。この遺跡は隔絶された現象では無いが紀元前3,000年以上前の下ナジュド(Lower Najd)の水に恵まれて居た時代の生活を例示している。これはシュメール人(Sumerian)を含む南メソポタミア(Mesopotamia)の住人が特にバハレイン島とカティーフ(Qatif)の海岸を含むディルムーン(Dilmun)地方を中心にアラビア湾岸に沿って一番典型的にその影響を与えた時代である。同じ時代に東アラビアやオマーンでは交易と農業が組み合わさった定住社会が出現した。

 

2.1 中央アラビアでの定住と遊牧の分離

 

新石器時代に続く時代の中央アラビアでの考古学的記録には現在でもずれがある。このずれは紀元前3,000年期の多くの部分と紀元前2,000年期の殆どに及んでいる。しかしながら重大な変化が紀元前2,000年期後半から紀元前1,000年期初期迄のこの時代に間違い無く起き、南西アラビアからの陸上交易路へ交易都市が急激に出現し、長い距離の陸上交易が家畜化した駱駝の大規模な利用で可能に成った。

 

この考古学的空白は恐らく遺物の材料にある。多分これらの遺物は例えば泥壁の建物や日常生活の備品用に圧倒的に使われた有機材料等その性質から腐敗しやすかった。それでもその時代の社会の発展を証明する陶器、金属、石および骨製の遺物がそこからいずれは発掘されると期待している。それらの無い理由はサウジアラビア国内での今日までの考古学調査の殆どが地表の遺物の調査を目指して来て居り、小さな早期定住跡は環境が良好である地域にあり後世の集落や農園の下に成っている為に地表調査だけではその認識が難しい事に因る。その様な遺跡の例としてはカスィーム(al-Qasim)のウナイザ('Unayzah)に近いズバイダ(Zubaydah)の最も早期の層がある。

 

何れにせよ紀元前3,000年以降の一般的乾燥の増大で中央アラビアの人々は定住、半定住牧畜と狩猟へともっと極端に移行する選択を迫られた。この時期に半遊牧や遊牧の羊飼いや狩人をしていた集団は減少する自然の恵みを利用する為にその移動性を増さざるを得なかった。幾つかの集団が定住し始めた傾向が他の集団にも影響を与え、窪地や涸れ谷(ワーディー)の様なもっと水の豊富な地域へ依存する農業へと転向するのを促進した。この様に紀元前3,000年期終わりから2,000年期初めの間にはアラビアの社会は牧畜遊牧と定住農業への分離が始まった。そしてその形態はごく最近までその性格を残して居た。

 

2.2 下ナジュド最初の農業定住

 

ナジュド(Najd)でのこの時期の農業にはイラク南部や東アラビアで既に栽培されていたナツメヤシが殆ど間違い無く含まれていた筈である。ナツメヤシはこの地方の原産であり、現在でも東アラビアの所々で野生のナツメヤシの自生が見られるのは恐らく野生原産の実りの名残だと思われる。紀元前3,000年期の半ば迄にその他に作物化されたのはコウリャン、大麦および小麦が含まれる。アラブ首長国連合にあるこの時代のヒリ(Hili)遺跡でその考古学的埋蔵品の中からこの三つ全てが発見されている。このヒリ(Hili)とオマーンではこの早い時期に定着農業の萌芽が既に形成されていたのはほぼ確実である。

 

アラビアの乾燥した地域での伝統農業は灌漑に頼っており、作物はナツメヤシの木立の下やその近くの半木陰で一番良く育った。大規模灌漑は紀元前4,000年期までにメソポタミアで既に発達していた。続いてバハレイン島(Bahrain)と本土のカティーフ(Qatif)から成るディルムーン(Dilmun)地方の海岸やハサー(al-Hasa)の大オアシスへと広がった。移動性の増大は中央アラビアの人々にこれらの農業技術との接触を促し下ナジュド(Lower Najid)での現在の形態の農業が紀元前3,000年期から2,000年期始めの間に確立した事を立証できる。紀元前2,000年迄にはオアシス農業はオマーンや東アラビアでも完全に確立し、この影響は既にナジュド(Najid)にも及んでいた。

 

2.3 駱駝の家畜化と遊牧の始まり

 

紀元前3,000年以降の気候の良好さが減って来た時期の中央アラビアの人々に対してのもう一つ選択は減少し密度を減らして疎らに成って来た野生の植生を有効利用する為の移動性の増大であった。人々は駱駝の能力を利用する事によってこれが出来る様に成った。駱駝は紀元前3,000年期の間に南アラビアの何処かで搾乳用の動物としてまず家畜化されたとの立証がある。乾燥の始まりは駱駝の牧畜が広まるのを促した。

 

駱駝の家畜化は三段階で発展したらしい。完全な搾乳用動物として先ず利用されたのは駱駝飼育に特化した遊牧の発展よりも何世紀も前に多分始まった。負担に耐える動物として利用された可能性については議論がある。続いて騎乗用の動物としての比類の無い能力が次第に発達し紀元前1,000年期の終わり頃からの北アラビア式鞍の着用の発達でほぼ十分にその能力が発揮出来た。これらの他に毛を織物に利用したり糞を燃料に利用したりする事も広まった。それがその後のアラビア歴史の中に現れた想像を越えて高まる乾燥状態でも人々が生活する事を可能にした一つの要素であった。「共生」とは早い世紀に最初に駱駝と人の間に発達した相互依存の状態に対する公正な表現である。

 

早期の遊牧ベドウインに関する考古学的立証は殆ど無いが未発達な構造物や粗末な石器や陶器がこの時代に遊牧生活が出現したのを特徴付けている。これらの構造物は岩盤の露頭や低い稜線に囲まれた入り江の様な場所で見つかり、井戸や涸れ谷流域では無くても今日でもベドウインが好む場所である。構築物は小人数で季節的な人口を示す様にまばらであり、炉床、住居の基礎や付属するツムリ(塚、tumuli)が確認されている。これらの遺跡は生長する駱駝遊牧社会に関連し紀元前2,000年期から紀元後数世紀の範囲の時代にわたっている。初期の遺跡では精巧に作られた石器が良く見つかる事で後期の物と区別できる。後期の遺跡では識別できる陶器が圧倒的に多く石器は少なく粗末である。

 

これ故に紀元前2,000年期を通じてその前の紀元前3,000年期から始まったより範囲の広い遊牧とより定着した農業への分化の傾向が更に確立された。この仮説を裏付ける為の本当に明確な考古学的資料が現在ではまだ不足している。しかしながらこれらの傾向に沿った理論を組み立てる事によって紀元前2,000年期の終わりから紀元前1,000年期初めにかけてのオアシス集落、駱駝輸送による長距離交易や駱駝に騎乗する部族的に組織された人々の存在等アラビアの状況説明を試みる事は出来る。部族的に組織され遊牧での牧畜やオアシス農業を営む後世のアラビア社会の起源を探せるのはこの曖昧な時代である。

 

3. アラブの出現(1,300BC-200AD)

 

3.1 アラブとは

 

紀元前2,000年期と紀元前1,000年期初めのナジュド(Najd)の人々はどこから来たのかと云う疑問がある。紀元前1,000年期初めの数世紀間のアラビア社会を良く描いているのは紀元前9世紀から紀元前6世紀に掛けてのアッシリア(Assyrian)やバビロニア(Babylonian)の記述である。これらの記述が北アラビア全域にアルブ(Arubu)が居た証拠を残している。「アルブ(Arubu)は部族的に組織され駱駝に騎乗し北および北西アラビアのアドゥーマートゥー(Adummatu)、タイマー(Tayma)、ディーダーン(Dedan)やウラー('Ula))等の主要なオアシス集落を結んで交易を行う民族である」と碑文に記録されている。アドゥーマートゥー(Adummatu)は現在のアルージョウフ州のデューマト アル ジャンダルであり、タイマー(Tayma)は古代にバビロニアの都が一時的に置かれ事もある現在のタブク州南東部の町である。又、ディーダーン(Dedan)やウラー('Ula))等は現在のマディーナ州北部のマダーイン・サーリフに隣接した町である。

 

このアッシリアの碑文が歴史上最初のアラブ(Arab)の明確な引用であった。この碑文は南西アラビアから現在のレバノンであるレヴァント(Levant)へ物資を輸送する上でのアラブ民族の偉大な商業的な重要性を証拠立てている。香辛料、香料、象牙、金やその他の贅沢品の交易は古代ギリシャの時代までに東地中海国家群繁栄の一つの柱に生長していた。

 

今日ではアラブと云う定義は言語学的に使われて居りアラビア語を母国語として話す民族をアラブとしている。でも古代のもともとの使用では明らかにアラブと云う用語にその様な意味合いは無かった。むしろ肥沃な三日月地帯に定住していた人々が北アラビアやシリア沙漠に住む部族的に組織され好戦的な駱駝牧畜民を呼ぶのに使って居た。これらの民族を例えば聖書の中ではエレミヤ(Jeremiah)によってアラブス(Arabs)、紀元前5世紀のヘロドトス(Herodotus)によってアラボイ(Araboi)そしてそれぞれ紀元前1世紀、紀元後1世紀のストラボン(Strabo)とプリニウス(Pliny)によってアラブス(Arabes)等アラブと呼んで居た。この地理的地域内の幾つかの部族はアラム語(Aramaic)(古代シリア地方のセム語)を話していたらしい。半島の中の更に南ではこれらの部族はイスラーム以前の古代アラビア語を話す以外は同じ様な生活をしている諸部族に混じり合っていた。イエメンの定住したサイハド(Sayhad)民族は4世紀までアラブ('A'rab)と云う用語を中央および西アラビアの部族的な牧畜遊牧民を呼ぶのに使って居た。「遊牧牧畜民を示すのにアラブ(Arab)」と云う用語を使うのはイスラーム時代に入っても続いて居る。

 

古代のアラブと云う用語はこの様に或る生活様式を行う民族を意味して居り言語学的な結びつきでは無かった。この用語は拡張されて中央や西アラビアの定住部族も意味する様に成った。遊牧民と定住民が同じ言語と文化を持っていたのでアラブと云う用語はついに遊牧民と定住民両方を意味する様に成った。ギリシャ・ローマのもっと前の時代にはアラビアと言う用語は肥沃な三日月地帯に囲まれた孤型内で遊牧民の住む幾つかの地域を示すに過ぎなかったのに反して古代ギリシャの時代までに結局は半島全体がギリシャ・ローマにアラビア(Arabia)として知られる様に成って来た。アラブ(Arabs)として一番早い証明されたアルブ(Arubu)の先祖とその南の周辺部族にはアッシリア(Assyrian)碑文の時代の前から殆ど確実にその呼び方が適切に成って来た。

 

3.2 アラブの文字

 

これらの民族の使った文字は南アラビア碑文(南セム語(South Semitic))、サムード(Thamudic)流とアラム語の三つの主要なグループに別れる。先ず関連する二つについて調べてみる。南アラビア碑文として知られているイエメンのサイハド(Sayhad)文明の文字とヒジャーズ(Hijaz)と中央アラビアのサムード(Thamudic)流と呼ばれる文字である。この二つのグループの間には相当な類似性があり、その起源に関する疑問は興味を引く。この両方とも子音と標準の文字順を保って居り、この子音と標準の文字順は紀元前1,400年以前のレヴァント(Levant)の北西セム(Semitic)族言語と共有性があるが、紀元前1,000年以前に北西セム(Semitic)族言語から省かれてしまっている。この様に北西セム族文字(North-West Semitic script) と古代アラビア文字とは関連があり恐らくは紀元前2,000年期半ばの或る時期に互いに分かれたのだと一般的に思われている。

 

3.2.1 南セム語(South Semitic)

 

これから少なくとも紀元前3,000年代からシリアおよび北アラビア沙漠地域でセム語(Semitic)を話す部族が「牧羊遊牧技術集団と称した」との論議も幾分ややこしい。この部族は新石器時代後期および銅石時代の植民、牧羊民および狩猟民の子孫だろう。紀元前3,000年期にはこの部族は騾馬に乗った牧羊遊牧民であり、その移動範囲も限られその為定住民に容易く支配されていた。しかしながら紀元前2,000年期が終わりに近づくと恐らく密集放牧によって悪化した環境条件の為に農業に移行するか半島部から伝わって来た駱駝遊牧に移行して行かざるを得なかった。紀元前2,000年期にこの部族がそう成るに連れて出現してきた南セム文字グループに属する他のアラブ牧畜民や交易民は西アラビアと恐らく中央アラビアを通して広がって来た。

 

こうして現れたのが紀元前15世紀から紀元前14世紀までにアラビア半島の北西とシナイ(Sinai)で出来た南セム族文字(South Semitic script)である。その後の数世紀の間にこの進化しつつあったこの文字は半島を通って南へと浸透して行った。この文字が書くのに使われた言語が勿論この文字より先んじて伝わった。文字と言語の広まりは同時であろうとなかろうと、ゆっくりと移住や元々の部族への文化編入に伴って行われ、紀元前2,000年期の中頃より前に始まりアラビア横断の交易路とそれに沿った都市が考古学的に出現した紀元前1,000年期半ばまでに完了している。

 

最近まで無視されて来たイエメンの青銅器時代の考古学も紀元前2,000年期のアラビアの文明に焦点を当て始めた。イエメンでは紀元前2,200年から紀元前1,700年には定住農業が営まれて居た事は知られている。一番顕著なのはその陶器はシリアやパレスタインの早期青銅器の陶器と関係して居り西部アラビア全長に及ぶ文化的繋がりが確認されている事である。

 

アラビアの独立したセム族(Semitic)の伝統は少なくとも紀元前2,000年期まで遡れると云う見解の根拠は聖書の中にも見られる。南アラビアおよびハドラマウト(Hadramawt)のアラブ部族の先祖と考えられているヨクタン(Joktan、カフターン(Qahtan))が分離した存在として認識されたのは一番遅くは紀元前10世紀だと思われる。紀元前500年迄にイエメンのサイハド文化(Sayhad)の様なアラビア言語の南のグループはハッキリと分かれて、南セム語(South Semitic)に分類される。

 

3.2.2 サムード(Thamudic)

 

ディーダーン文字(Dedanaite)タイマー文字(Taimanite)の様な中央や西アラビアのサムード(Thamudic)文字様式はイエメンの南アラビア碑文の文字様式より更に古い起源と思われる。これは紀元前1,500年の原始シナイ(Proto-Sinaitic)アルファベットと幾つかの文字様式が極めて似ている為である。

 

紀元前2,000年期の後半に北西アラビアのミディアン(Midian)地域で都市化文化が生まれた。その文化の下ではレヴァント(Levant)の青銅器時代後期の灌漑、銅の採鉱と使用および精巧な陶芸が実践されていた。これはクライヤ(Qurayyah)の大きな丘の上の都市遺跡での調査発掘で明らかにされた。クライヤ(Qurayyah)の住人はシナイ(Sinai)半島のティムナ(Timna)でエジプト新王朝の銅の鉱山業と深い関わりを持っていた。ティムナ(Timna)は恐らく原始シナイ(Proto-Sinaitic)アルファベットが作られた地域の一つである。その市は多分既に出現していた南西アラビアからの主要陸上交易路の戦略上の要所に建って居た。この人々は明らかに家畜化した駱駝を使ったと云う重要な事実があり、それによるパレスタインと西アラビア間の陸上輸送すなはち陸上交易路の起源はこの時代まで少なくとも遡れ、本当はミディアン(Midianite)時代以前まで広がっていると思われる。

 

この現れつつある文明が紀元前1,000年期の前に中央アラビアまで浸透した度合いはまだ非常にぼんやりとしか分かって居ない。今日での僅かな証はリヤードの北西300 kmにあるカスィーム(al-Qasim)地方のウナイザ('Unayzah)近くのズバイダ(Zubaydah)遺跡から得られている。そこでは紀元前2,000年期後期の集落と銅製品製作の跡が見つかっている。北西アラビアのミディアン(Midianite)遺跡とほぼ同時代である。この様に中央および西アラビアはサムード(Thamudic)の文字と言語の地域であった。

 

3.2.3 アラム語(Aramaic)

 

前記のアラビアで見つかったイスラーム以前に使われた文字の第三のグループはアラム語(Aramaic、古代シリア地方のセム語でキリストが用いたとされる言葉)とそれに密接に関連して派生したナバテア語(Nabataean)である。これは南アラビア碑文やサムード(Thamudic)グループとは異なりレヴァント(Levant)の北西セム族(Semitic)流に属している。紀元前2,000年期の半ばに肥沃な三日月地帯に囲まれた沙漠全体と半沙漠地帯にアラム人(Aramaeans)の出現が目撃された。アラム人は紀元前2,000年期半ばのアフラームー人(Akhlamu)と関係して居た。アフラームー人(Akhlamu)は遊牧民で他の地域ではサウジアラビアの東部州で確認されている。アラム人の遡る事の出来る起源はアラビアで南セム語(Semitic)やサムード語(Thamudic)を話していた部族の時代より更に前の時代であった。アラム人は紀元前3,000年期終わりにアモリ人(Amorites)と同じ領土を占め、多分その直接の子孫であった。

 

アモリ人(Amorites)は紀元前3,000年期以降パレスタイン(Palestine)からメソポタミア(Mesopotamia)に至る地域を征服していた民族であり、その子孫であるアラム人(Aramaeans)とは両方とも当時のメソポタミア(Mesopotamia)の記録に残されている。この両者とも北西セム語を話す牧畜民であり、肥沃な三日月地帯の文明化した都市の住人からは恐れと侮蔑を持って見られて居た。その住人達の多くも紀元前2,000年代の半ばまで遡ればセム語を話していた。何世紀かの間にこの人々は肥沃な三日月地帯の文明社会に大人数で入り込んで行った。紀元前1,000年期中頃までに肥沃な三日月地帯全体の共通語(lingua franca)がアラム語(Aramaic)成ってきた。

 

3.2.4 古代アラビア語

 

アラム人(Aramaeans)と南セム族との間の区別は厳格では無かった。紀元前9世紀から紀元前6世紀のアッシリア(Assyrian)やバビロニア(Babylonian)の碑文に記述の見られる北アラビアの部族は疑いもなくこの二つのグループから特徴を分け合っていた。例えばタイマー(Tayma)の碑文は基本的には北アラビアでのサムード(Thamudic)文字の言語の地域である。しかしながら紀元前6世紀から紀元前5世紀にそこで両方の碑文が見つかっている様にアラム語(Aramaic)も使われていた。紀元前2世紀から紀元4世紀の北西アラビアのナバテア人(Nabataean)は自分達の言葉を書くのにアラム語(Aramaic)に極めて近い文字を使って居た。この文字はアラビア語とアラム語の合成であった。しかしながらナジュド(Najd)ではアラム人文化との繋がりは余り強くはなかった。

 

紀元前500年から西暦500年の間に西および中央アラビア全体で北の強い北西セム語を話す地域(Aramaic)と南の強い南セム語を話す地域を結んでいた。西および中央アラビアにおけるイスラーム以前の言葉の分類はまだ研究の緒に過ぎない。しかしながらそれは中央および西アラビアにおけるサムード(Thamudic)の文字と言語の地域の中にあった。中央および西アラビアではイスラーム以前の数世紀にわたって古代アラビア語が発展しこの古代アラビア語は多面な背景を持つ特徴のあるのは疑いも無い。

 

これらの言語の研究は全体として言葉の連続体を作りその中でこれらの言葉は南セム語と北西セム語の両方の特徴を共有する様に互いに混じり合った。これらの言語範囲の中で最終的には古代アラビアを作り出した多くのアラビア語の特徴を持つ母体が確認できる。これゆえに言語学的呼称でアラブと云う用語を当てはめるのであればこれらの言語を話す人達は早期アラブ部族であると当然考えられた。イスラーム以前のナジュド(Najid)の部族は勿論この言語に間違いなく含まれ早期アラブ部族の中核を成す部分であった。

 

この為に紀元前1,000年期の半島のアラブ部族は文字と言語では二つの関連する伝統に属していた。この二つの伝統はナジュドと西アラビアで混じり合った。まだ南と北の構成要素の観念はアラブ部族の伝統の中に非常に頑固に残って居たし、残って居る。アラブ部族は自分達を地理的にカフターン族(Qahtan)出身の南グループとアドナーン族('Adnan)出身の北グループに常に分けて来た。イエメンのサイハド文明(Sayhad)を担ったのはカフターン族(Qahtan)の子孫と考えられて居たし、アドナーン族('Adnan)は半島北部の出身だと考えられて居た。この部族の血筋(genealogy)での基本的な区別はその起源をアラブ部族の早期歴史の中でアラム人(Aramaeans)と南セム族血統に遡る。

 

3.3 陸上交易路上の都市

 

紀元前500年迄に現れた状況はアラブ遊牧民と定住した部族社会である。それらは牧畜遊牧民と農民の両方で乾燥した環境で生存するための手段を習得していた。これにより中央アラビアの広い地域を魅力的にしていた。特に下ナジュドでは定住の可能性が高かった。一般的に紀元前1,000年期を通じて人口が増加し下ナジュドの涸れ谷や窪地では集落が増えその中でも涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)は最も良好な場所の一つであった。

 

この過程が進むに連れてそれら集落は経済的に政治的に重要に成って来た。南西アラビアからの交易が実現できる様に成ると共に駱駝の賜である大きな移動性によってアラブ部族は軍事的経済的な力と認められる様に成った。紀元前1,000年期の早い世紀の間に農業集落は重要な交易都市に発展して来た。この証拠は早期の北や北西アラビアのタイマー(Tayma)、ディーダーン/ウラー(Dedan/'Ula)、アドゥーマートゥー/ジャウフ(Adummatu/Jawf)等で特に強い。交易が発達するに連れて例え少し後の時代でも中央アラビアを横切って下ナジュドや東アラビアの涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)やハルジュ(al-Kharj)等地域の農業集落も商業的政治的に重要に成り、南ナジュドを通る交易路も紀元前4世紀頃からその重要性を増して来た。

 

サウジアラビアにおける古代都市遺跡は主として紀元前500年以降に属している。これらの都市はこの様に地中海の古代ギリシャと同時代のものである。アラビア都市の富はインド洋および南西アラビアから肥沃な三日月地帯や地中海への交易から生まれた。ここでの市場はローマ帝国時代に非常に儲かる様に成って来た。その直接的な結果としてアラビアの交易都市は利益を得た。一番顕著な例は南西アラビアのイエメンの乳香(frankincense)と没薬(myrrh)を生産する国々や北西アラビアの今日のヨルダンと北ヒジャーズにあったナバテア王国(Nabataean kingdom)である。

 

この時代までに存在した涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)とハルジュ(al-Kharj)の農業共同体は交易の利を得る有利な場所にあった。東部州のジャルハー(Gerrha)の場合の様に今では消滅してしまった当時の都市を記録した資料は殆ど無い。涸れ谷ハニーファにはマダーイン・サーリフ(Mada'in Salih)、タイマー(Tayma)、サージ(Thaj)、カルヤ・ファーウ(Qaryat al-Faw)やもっと新しいカスィーム(al-Qasim)のズバイダ(Zubaydah)の様な規模の交易都市の考古学的跡は無い。しかしながらいずれはこの様な跡が現れると思われる。その多くはこの時代の物で無いかも知れないがアフラージュ(al-Aflaj)、ワーディー・ダワースィル(Wadi Dawasir)やハルジュ(al-Kharj)等南ナジュド(Najd)の至る所にある何千と云うツムリ(Tumuli、塚)では何れは研究の対象と成る遺物が見つかっている。

 

涸れ谷ハニーファとリヤードについては今日の考古学を通してもこの時代の集落の跡は見つかって居ないけれどもそれに代わって文献上で調査できるだろう。アラブの伝説にはアラブの失われた部族のタスム族(Tasm)とジャディース族(Jadis)、耕作者と開拓者の話がある。この両部族は西暦300年前の或る時代に概ね涸れ谷ハニーファとヤマーマ(al-Yamamah)に住んでいたがバヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門がその廃墟を引き継ぐ前に死滅してしまったと言われている。文献もイスラーム前の二世紀にわたる記述を残している。この町は今日のリヤードの占めるほぼ全域にわたって建設されていた。

 

4. ハジュル・ヤマーマからイスラームの始まり(BC200-634AD)

 

イスラーム以前ではヤマーマ(al-Yamamah)と云う用語はアリード(al-'Arid)とハルジュ(al-Kharj)の耕作地全体を意味していた。そこでは環境が順調な時には集落が涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)沿いや涸れ谷ニサーフ(Wadi Nisah)と涸れ谷スライイ(Wadi Sulayy)の流れに沿った広い平原で繁栄していた。その前の時代にはハルジュ(al-Kharj)はアラビア湾からイエメンへ横断する隊商路上の中継駅であった。これと対照的に涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)内の集落はハルジュ(al-Kharj)から北西に向かう交易に頼って来た。この交易路はリヤード(Riyadh)の少し南で分岐しトゥワイク(Tuwayq)崖地の西側にそってドゥルマー(Durma)を通りヒジャーズ(Hijaz)に向かい、もう一方は涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)を通りヒジャーズおよび北ナジュド、北西アラビアそして最後はパレスタイン(Palestine)の両方に向かっていた。

 

しかしながら3世紀に地中海世界に経済的停滞があった。これに4世紀初めにローマがキリスト教改宗した後の香料(incense)の需要の落ち込みが相俟ってイエメンのサイハド(Sayhad)文明とアラビア隊商都市を衰退させた。この敗退した経済状態が南西アラビアから中央および北アラビアへの部族的移住が行われた要素の一つであった。この部族的移住の言い伝えは紀元後数世紀の出来事に帰する。

 

集落の衰退は遊牧民が力を増すのに符合していた。陸上交易路沿いの古い隊商の中心地は商業的に衰退し、人口も減少するにつれて遊牧の好戦的な貴族層が集落への支配力を増す傾向となった。そこに残った住人は農業を続けたり圧倒的になってきた遊牧生活に移行したりした。幾つかの場合には集落は部族の神聖な包領として部族に認められるようになり地位と力を得た。その様な集落を支配する一族が全部族に対しそれに相応しい威光と影響力を獲得して行った。

 

従ってこの時代にナジュド(Najd)の部族状況は著しく変化した。ヤマーマ(al-Yamamah)に関してはタスム族(Tasm)とジャディース族(Jadis)のぼんやりした時代に関する或る仮の結論を先ず得る事が出来、そして彼等の後継者となったバヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門の到着後の時代を十分に確信を持って記述出来る。先ずはこの時代のアラビアでの広範囲な政治情勢のおおまかな説明から始める。

 

4.1 ビザンチンとサーサーン朝ペルシア(Byzantium and Sasanian Persia)

 

ビザンチン帝国とサーサーン朝ペルシアの対抗がイスラーム以前の数世紀にわたるアラビアの歴史を明らかにしてくれる背景を作り出した。特にサーサーン朝ペルシアと東および中央アラビアとの関係及び北および中央アラビアでのキンダ部族連合(Kinda)の出現が涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)の歴史でそれぞれの役割を演じた。

 

サーサーン朝ペルシアの東アラビアへの直接的な介入は或る程度詳しく立証されている。初代サーサーン朝ペルシア王のアルダシール(Ardashir)は恐らく西暦225年頃に東アラビアへ侵攻した。4世紀初めの厳しい干魃の中で東アラビアのアラブ部族はアラビア湾を越えてペルシア領を襲撃する様に成ったと言われている。西暦310年シャープール二世(Shapur II)は東アラビアに侵攻し報復した。この遠征でシャープール二世はアラビア半島をマディーナ(al-Madinah)まで行軍したと言われている。しかしながらこの侵攻の後、ペルシアはヒーラ(Hirah)のアラブ部族首長ラフム(Lakhmids)と同盟し東アラビアの権益を守った。

 

ビザンチン帝国が4世紀にローマ領レヴァント(Levant)を引き継いだ頃、サーサーン朝ペルシアはメソポタミア(Mesopotamia)およびアラビア湾の海路を支配していた。両者はシリア沙漠をはさんで対峙した。その辺りに遊牧していたアラブ部族は自分達が政治的に微妙な立場にいる事を知った。ビザンチンおよびサーサーン朝ペルシアにそれぞれ支援された強力な部族連合が両者の緩衝力として出現した。最も強力な連合はまずシリアと北西アラビアのサーリフ族(Salih)であり、次いでガッサーン族(Ghassan)であり、そしてメソポタミアとの国境のヒーラ(Hirah)に都を置く北東アラビアのラフム族(Lakhmids)であった。

 

ビザンチン帝国がサーリフ(Salih)とガッサーン(Ghassan)を支援し、ラフム(Lakhmids)にはサーサーン朝ペルシアの支援があった。サーサーン朝ペルシアには儲かる印度洋交易をアラビア湾に向けるため紅海の交易路の息を止めるとの政策を持ち、その一部として自らの支配に置くと言う意図でイエメンにも興味を持っていた。ビザンチンはエチオピア(Ethiopian)の南西アラビアへの干渉と云う支援を受けこのサーサーン朝ペルシアの意図に対抗した。こうして中央アラビアの部族や都市の歴史は主としてビザンチン帝国を支持するかサーサーン朝ペルシアを支持するかの部族的争いと成った様に見える。

 

この状況はアラビアでの宗教的な発展によって複雑になる。東地中海での一神教(monotheism)の台頭が当時は多神教(pagan)のアラビア神格を崇拝していたアラビアの民に強い影響をあたえた。イエメンのヒムヤル族(Himyarite)の為政者や北ヒジャーズ(Hijaz)の幾つかの定住民等多数の部族がユダヤ教(Judaism)を受け入れた。キリスト教はますます多くの部族に広まり、マズダク教(Mazdakism)の様なペルシアの宗教はラフム(Lakhmids)の支配地にあらわれた。一神教(monotheism)の広まりは新しい一神教の信仰の中でも取り分けラフマーン(Rahman)すなはち慈悲深さ(Merciful)と云う信条が発達させた。この信条はイエメンで信者を増やしナジュドにもあらわれた。宗教的な忠誠心は政治的な面を持っていた。ビザンチン帝国がアラビア特に南西アラビアでキリスト単性論(Monophysite Christianity)を支援し、サーサーン朝ペルシアは一般的にユダヤ教(Judaism)やネストリウス派キリスト教(Nestorian Christianity)を援護した。7世紀初期に預言者ムハンマド(Muhammad)に対して或る程度の反対を生み出した地方宗教を増やしながら一神教の信仰の深まりはイスラームの唯一神に対する人々の心情を整えた。

 

4.2 タスム(Tasm)とジャディース(Jadis)

 

涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)とヤマーマ(al-Yamamah)での生活の営みの萌芽はアラブの系譜や伝説に留められている。アラブ系譜学者は伝統的にアラブ部族を二つのグループに分けている。失われたアラブ(lost Arabs or al-'Arab al-ba'ida)と生き残ったアラブ(surviving Arabs or al-'Arab al-muta'akhkhira)である。生き残ったアラブはこれまでに既に述べた様に北方と南方の大きな二つの部族から成っている。

 

失われたアラブ或いは消えた部族に関する情報は伝説の形でしか分かって居ないがその中で幾つかはサウジアラビアのイスラーム以前の考古学的遺跡に残っている。この様な部族にはサムード族(Thamud)、アード族('Ad)、アマーリーク族('Amaliq)、イラム族(Iram)、ハドラ族(Hadura)、ジュルフム族(Jurhum)と重要なタスム族(Tasm)とジャディース族(Jadis)が含まれている。タスム族(Tasm)とジャディース族(Jadis)は当時、涸れ谷イルド(Wadi al-'Ird)と呼ばれていた涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)を含むヤマーマ(al-Yamamah)に住んで居たがイスラーム到来の二世紀前にこの地にバヌー・ハニーファ一門(Banu Hanifah)がやって来る前に死に絶えたと言われている。

 

その様な伝説は史実の正確な記録として明らかに信頼性は無いけれども多くの場合その史実の詳細を時には隠しては居ても重要な出来事の記憶を残している。タスム(Tasm)とジャディース(Jadis)は家系的には密接な関係があり住民の全てでは無いにせよ明らかにその大部分を占めていた。話の流れではバヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門がヤマーマ(al-Yamamah)にやって来た時にタスム(Tasm)とジャディース(Jadis)の廃墟となった住居や果樹園を見つけそこを占拠した。伝説の中では確かに誇張されてはいるが廃墟の幾つかは誰から聞いても堂々と立派な建造物だった。廃墟には多分見張りや防御の為の高い望楼、がっちりとした要塞や広範囲な灌漑システムを含んで居り、イスラーム初期の旅行者がタスム(Tasm)とジャディース(Jadis)の一部がまだ生き延びて居るのでは無いかと言い立てる程であった。

 

後世に涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)として良く知られる様になった涸れ谷の流れに沿ってこの時期に農民の定着した豊かに暮らしがあったとしても驚くには当たらない。数世紀にわたってこの地域にアラビア横断交易網の重要な交易センターがあった事は前述した。このアラビア横断交易網は今日ではその存在が確認されて居る。これにはこの地域に農業と集落が営まれていた事が前提条件となる。次ぎにまさにタスム(Tasm)とジャディース(Jadis)が繁栄した時代に他の豊かな農業集落が南ナジュドに存在した事を考古学調査が立証してきた。

 

中でも注目に値するのが涸れ谷ダワースィル(Wadi al-Dawasir)の少し南のカルヤ・ファーウ(Qaryat al-Faw)である。そこでは裕福な部族都市の精巧な遺構が宮殿、寺院、防御壁、二階建てのスーク(suq、市場)1 km x 2 kmの広さの住居地区、井戸群と灌漑された大きな農園と果樹園が共に発掘された。この遺構遺跡は紀元前二世紀から遅くとも紀元五世紀の時代のものと思われる。ガラス、宝石、金属細工、織物の切れ端、木工細工、青銅、石像、碑文や壁画も出土し、貨幣まで鋳造していたこの沙漠都市の持って居た高度な文明を証明している。涸れ谷ダワースィル(Wadi al-Dawasir)の中のハマーシーン(Khamasin)に近い今日ジャウウ(Jaww)と命名された同じ様に期待される遺跡がその発掘が待たれて居り、更にアフラージュ(al-Aflaj、今日のLayla)にある集落と農業の多くの広範囲な遺跡もこの時代の物である様だ。この遺跡に関しては私のサウジ紹介の「空白地帯と呼ばれる沙漠」の記述も参照戴きたい。

 

ジャディース(Jadis)の首都もジャウウ(Jaww)と命名されていたと云われ、そこにはこの部族が密集して定住していた。ジャウウ(Jaww)と云う名は落ち込んだ平地とか谷底の意味である。今日その場所は定かでは無いけれどもジャディース(Jadis)の絶滅の後、ハルジュ(al-Kharj)の集落がジャウウ・ヤマーマ(Jaww al-Yamamah)として知られる様に成って居たのでジャウウ(Jaww)は恐らくハルジュ(al-Kharj)にあったのでは無いかと思われる。今日のヤマーマ(Yamamah)村は一般的にヤマーマ族(Yamamah)の古代の集落の場所であったと一般的に思われているし、考古学調査でも出土品は二世紀から四世紀の物である。後にジャウウ(Jaww)/ ヤマーマ(Yamamah)はヒドリマ(Khidrimah)として知られる様に成り、そのヒドリマ(Khidrimah)が間違いなくハルジュ(al-Kharj)の中にある。

 

当時は涸れ谷イルド(Wadi al-'Ird)と呼ばれた涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)とやはり当時は涸れ谷ウツル(Wadi al-Wutr)と呼ばれた涸れ谷バサー(Wadi al-Batha)すなわち現在のリヤード(Riyadh)と同じ地域にタスム(Tasm)は定住していたと云われている。その中心の集落は十世紀にはハジュル(Hajr)或いはハドラ・ハジュル(Khadra Hajr)と呼ばれた場所にあった。この時代にはタスム(Tasm)の塔やその他の建物の廃墟はまだ見て分かる程度に残って居りその塔楼は元々は非常に高かったと云われている。ハジュル(Hajr)にあるムウティク(Mu'tiq)を含む二つのタスム(Tasm)の城塞はバヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門がハジュル(Hajr)に到着した時に占拠したリヤード(Riyadh)の旧市街或いはその直ぐ近くにあったと云われている。その集落或いは集落群の名は十六世紀まで使われその後は涸れ谷バサー(Wadi Batha)に近いリヤード旧市街付近のカスル(qasr、砦)と井戸を意味する様に成った。

 

イスラーム初期のハジュル(Hajr)はクスル(Qusur)の疎らな集落又は防護を固めた住宅地と果樹園ではあったけれどもカルヤ・ファーウ(Qaryat al-Faw)で見つかっている様な町の中心となる要塞は無く、散在する集落がバサー沈泥平原(Batha silt plain)の広い地域に広がり、リヤード(Riyadh)の旧市街から涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)の東岸に沿ってナツメ椰子の果樹園や耕作地がマンフーハ(Manfuhah)まで延びていたのだろう。

 

カルヤ・ファーウ(Qaryat al-Faw)の集落や社会機構がタスム(Tasm)のハジュル(Hajr)やジャディース(Jadis)のジャウウ(Jaww)にもあったかどうかは定かでは無いけれどもカルヤ・ファーウ(Qaryat al-Faw)の多くの特徴がこの時代のナジュド(Najdi)の交易農業都市でも見られ、高い高楼や灌漑された農地システムの遺構が今でも残っている。カルヤ・ファーウ(Qaryat al-Faw)は高度に組織され中央集権化した都市であり、単に地方に分散していた普通の部族都市を考えるよりもこの都市はもっと社会的に階層化され、王によって支配されていた。その中の一人で三世紀の王ムアーウィヤ・イブン・ラビーア・カフターニ(Mu'awiya ibn Rabi'ah al-Qahtani)は大げさに南カフターン(Qahtanid)部族のカフターン族およびムズヒジュ族(Qahtan and Mudhhij)の王を名乗っていた。王達はアフラージュ(al-Aflaj)でも見つかっている様な同じ種類の精巧な地下の墓に葬られる栄誉を与えられていた。私もその中に入った事があるがエジプトのカタコンペやマダーイン・サーリフ(Madain Salih)の横穴墳墓の様には大きくは無いが梯子の様に急な石段を下ると石組みの大人が立てる程の地下の石室に成っている。

 

ハジュル(Hajr)は政治的な繋がりも薄く緩やかな中央集権でありファーウ(Faw)よりも農業に重点があったと思われる。「カフターン(Qahtan)とムズヒジュ(Mudhhij)は好戦的な部族キンダ(Kinda)と連携している」と二世紀および三世紀のシバ語(Sabaean)の碑文に書かれて居た。当時のキンダ(Kinda)族はナジュラーン(Najran)の北の地域の多分カルヤ・ファーウ(Qaryat al-Faw)辺りに居住を定めて居り、中央および北アラビアに五世紀から六世紀にかけて衝撃を与えたキンダ(Kinda)同盟出現初期の部族の中心として二世紀から四世紀に掛けてこの都市が傑出していた時代であった。

 

カルヤ・ファーウ(Qaryat al-Faw)を支配した一門は単に好戦的な優位性を持つ部族的戦士貴族であったと思われる。しかしながら軍事上の武勇だけがファーウ(Faw)が明らかに他の都市よりも傑出していた唯一の理由ではない。商人と農民とで人口は増えていたし、交易上で明らかに特異な位置にいた。念入りに防護されたスーク(suq、市場)は隊商宿(caravanserai)とマーケットを組み合わせた機能を持っており、町の外の少し離れた場所にあった。商人の重要さは専門化の度合いと部族的血族関係からの利害関係を絶ち切る程の商業的利害関係を持つ集団の存在を示している。更に地位的に特質を持つ唯一認められた為政者がいると云う事実から血統的につながりのある部族達はその為政者の中央権威に服従し、為政者は部族間の問題にある種の裁判権を持っていた。宗教も又、重要であった。寺院の存在から分かる様に聖職者が居て、為政者の役割の一部と成って居り、政者一族の他の誰かが聖職者の役割を勤めて居た。更にカルヤ・ファーウ(Qaryat al-Faw)はこの地方の神格カール(Kahl)の為に当時カルヤ・ザート・カフル(Qaryat dhat Kahl)と呼ばれていた。

 

これらの事実から「カルヤ・ファーウ(Qaryat al-Faw)は神域であるハラム(Haram)として機能していた」との推測ができる。ハラムとはイスラーム以前のアラビアにあった中立地帯でその中での殺人は禁止され、一般的な部族間の敵対心は保留された。部族民は部族間の交渉や調停を平和的に行う事が出来た。イスラーム以前のアラビアではその様な場所が商人達を明らかに魅了し、その様な場所を支配する聖家族は非常に影響力を持つようになった。その様な神域ではイスラームの出現を予測する様な部族を越えたアラビア国家の萌芽を喚起しつつあった。

 

タスム(Tasm)とジャディース(Jadis)が消滅した時には両方の部族は共にタスム(Tasm)の専制君主の支配下にあった。この為政者は部族間を越えた権威が与えられていたファーウ(Faw)の為政者に似た特徴を持つ王であったと思われる。七世紀にハジュル(Hajr)が確かに神域であったと事実がその様な慣習が有ったことを示している。さもなければ専制君主はある部族の傑出あるいは他の部族を凌ぐ戦士貴族を単に代表しているだけであったのかも知れない。どちらにせよタスミの専制君主の傲慢な振る舞いが両部族を滅亡に導く一連の出来事を引き起こした。伝説によれば両部族の間に論争が生じその間にタスム(Tasm)はイエメンのヒムヤル族(Himyarites)の干渉を招いた。ジャウウ(Jaww)のジャディース(Jadis)はこの地方の女預言者(Cassandara、ザルカ・ヤマーマ(Zarqa' al-Yamamah))の警告を無視した為にジャディース(Jadis)の町はヒムヤル族(Himyarites)に破壊された。ヒムヤル族(Himyarites)は女預言者を十字架に張り付けにし、その死体をジャウウ(Jaww)の城門に曝した。その後はこの女預言者に因んでジャウウ(Jaww)はヤマーマ(Yamamah)と呼ばれる様に成りアラビアでは良くある事だが時間が経つに連れて町の名前がこの地方全体を指す様に成った。

 

このヒムヤル族(Himyarites)の襲撃による消滅の伝説は真実の核心部分である。中央ナジュド(Najd)の涸れ谷マーシル(Wadi Masil)にある二つの大きな正規の碑文の初期に四世紀後半にヒムヤル族(Himyarites)の介入があった事実が説明されている。私のサウジ紹介の「メッカ街道」にはこの碑文について「ダワードゥミー(Ad Dawadmi)の南の涸れ谷マーシル(Wadi Masil)には他の遺跡が見られる。マシル(Masil)と言う名の集落がダワードゥミー(Ad Dawadmi)の南東50 kmにある。この集落の手前1 kmを右に曲がり3 km行って再び右に曲がり尖った丘を抜けて5 km進むと涸れ谷マーシル(Wadi Masil)の入り口が見えて来る。涸れ谷マーシル(Wadi Masil)は壮観な黒い火山性の丘の間に有り、6世紀の南アラビアのシバ文字(Sabaean)で書かれた三つの碑文がある。アラビア文字の出現以前には中央アラビアではこの様な碑文はサムード文字(Thamudic)で書かれるのが普通であり、このシバ文字(Sabaean)は非常に珍しい。この碑文は6世紀にサバ(Saba)、ハドラマウト(Hadramawt)およびイエメン(Yemen)の王が遠征して来た事を記念して書かれて居る。当時、涸れ谷マーシル(Wadi Masil)は南からの乳香と通商の為の隊商路の重要な位置にあり、イエメン(Yemen)人達はこの隊商路を守るためにここに二つの砦を築いた。現地の部族は時折この砦を攻撃して居り、イエメン(Yemen)の王は現地のマッド(Ma'dd)族を鎮圧する為にここまで遠征して来た。涸れ谷マーシル(Wadi Masil)には又、新石器時代の岩壁画もある。この岩壁画は碑文よりも上流にあり、動物や空に向かって手を振って居る人物像を描いている。或る人物像は剣と楯を持ち、他の人物像は肩まである仮面を付けて居る。この岩壁画は西暦1,000年の作と考えられて居る」と述べてある。

 

ヒムヤル族(Himyarites)はアラビアを横断しアラビア湾に至る交易路の支配しナジュド(Najd)の部族間の問題にも影響力を及ぼそうとしていた。両方の碑文ともおおよそ伝説がタスム(Tasm)とジャディース(Jadis)が消滅したとしている時代のものである。従ってこの伝説は実際にヒムヤル族(Himyarites)がヤマーマ(al-Yamamah)に干渉した事を語っている。その様な侵入だけでタスム(Tasm)とジャディース(Jadis)の様な集落全てが消滅してしまうとは思えない。東アラビアで四世紀に干魃が起きた事は史実や過去の気象記録によって示されている。後世の良く知られたナジュドの盛衰モデル同様に連続した干魃に加え、ヒムヤル族(Himyarites)の侵入が涸れ谷イルド(Wadi al-'Ird)とヤマーマ(Yamamah)の集落を没落させたのだろう。

 

何がタスム(Tasm)とジャディース(Jadis)の消滅の原因であろうとバヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門は五世紀にはかつては反映した集落の遺構を見つけそれを占拠し再開発した。

 

4.3 バヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)の到着

 

バヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門が下ナジュド(Lower Najd)に到着したのは半島を横断してヒジャーズ(Hijaz)や上ナジュド(Upper Najid)から東へ北へとバクル・イブン・ワーイル族(Bakr ibn Wa'il)が移住した動きの一部であった。これはイスラームの夜明けの二世紀前に起きた出来事であり、ハジュル・ヤマーマ(Hajr al-Yamamah)が本当に歴史の脚光を浴びたのはこの二世紀の間の事であった。

 

伝説によればハニーファ(Hanifah)一門はハジュル(Hajr)の遺跡を含むタスム(Tasm)とジャディース(Jadis)の廃棄された集落を占拠した。この再建された集落の内でハジュル(Hajr)と呼ばれた30軒の家と30の果樹園から成る集落はその守護者であったとされるウバイド・イブン・サアラバ・イブン・ヤルブ・ハナフィー('Ubayd ibn Tha'alabah ibn Yarbu' al-Hanafi)に帰属した。ハニーファ(Hanifah)一門はムウティク(Mu'tiq)と呼ばれる要塞又は囲い地(Qasr、カスル)を占拠した。これはヤマーマ(al-Yamamah)の中でも最も有名なクスル(Qusur)の一つでシャット(al-Shatt)と呼ばれるハジュル(Hajr)の村の一部であり二つの谷を見下ろせる場所に位置していた。二つの谷とは涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)と涸れ谷バサー(Wadi Batha)を意味している。

 

バクル・イブン・ワーイル族(Bakr ibn Wa'il)はアドナーン(Adnan)部族から別れた北方アラブ部族のラビーア(Rabi'ah) グループに属していた。バクル族(Bakr)族の主要な一族はシャイバーン・イブン・サアラバ(Shayban ibn Tha'alabah)、ズフル・イブン・サアラバ(Dhuhl ibn Tha'alabah)、カイス・イブン・サアラバ(Qays ibn Tha'alabah)、イジル・イブン・ルジャイム('Ijl ibn Lujaym)およびハニーファ・ イブン・ルジャイム(Hanifah ibn Lujaym)であった。その少数な一族としてはヤシュクル・イブン・バクル(Yashkur ibn Bakr)およびタイマッラト・イブン・サアラバ(Taymallat ibn Tha'alabah)が居た。その幾つかの族の一門がヤマーマ(al-Yamamah)に定住した。ヤマーマ(al-Yamamah)地域は当時涸れ谷イルド(Wadi al-'Ird)、後の涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah))と涸れ谷ニサーフ(Wadi Nisah)や涸れ谷スライイ(Wadi Sulayy)およびハルジュ(al-Kharj)を包含していた。バヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門は特に涸れ谷イルド(Wadi al-'Ird)、涸れ谷クッラーン(Wadi Qurran)のクッラーン(Qurran)およびマルハム(Malham)に定住した。バクル族(Bakr)の町としてその他に大きいのは後にヒドリマ(Khidrimah)と呼ばれたハジュル(Hajr)の南東にあるハルジュ(al-Kharj)のジャウウ・ヤマーマ(Jaww al-Yamamah)である。

 

バヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門は部族の中でもバクル族(Bakr)の定住に力を入れた。バクル族(Bakr)の或る者は遊牧生活に残ったり遊牧生活に逆戻りしたりしたので、同じ族が遊牧と定住の両方の一門を持った。遊牧生活を保った一門は東アラビアを通って遠くユーフラテス河(Euphrates)まで移動しイスラーム以前の数十年はそちらで非常に強力に成った。涸れ谷イルド(Wadi al-'Ird)とハルジュ(al-Kharj)に定住した一門は豊作の年には穀物とナツメヤシの重要な生産者であったが凶作の年には自分達の消費を賄うのも辛かった。バクル族(Bakr)の定住した一門は遊牧を続ける一門と同じ様にお互いに反目し、時には相手のナツメヤシを焼いてしまう程であった。この様に集落の状況は非常に部族的であった。しかしながら五世紀後半から六世紀の間に先ずキンダ族(Kinda)の指導に次いでバヌー・ハニーファ一門の指導で中央政権出現の徴が顕れていた。

 

4.4 キンダ族(Kinda)連合

 

イスラーム以前の数世紀の間での中央アラビアに対するイエメンのヒムヤル族(Himyarites)の主な狙いは半島を越えてアラビア湾やメソポタミア(Mesopotamia)へ至る隊商路の確保であった。この事に関してはヒムヤル族(Himyarites)の利害はサーサーン朝(Sasanians)の利害と一致した。サーサーン朝(Sasanians)はイエメンや印度洋から紅海沿いでは無く自分の領土を通って地中海に至る豊かな交易路を出来るだけ確保したいと望んでいた。ヒムヤル族(Himyarites)はこの目的の達成の為に南ナジュド(southern Najd)の諸族と同盟或いは部族的関係を維持した。この諸族の中にキンダ族(Kinda)やムズヒジュ族(Mudhhij)が居た。五世紀にヒムヤル族(Himyarites)はその重きを好戦的なキンダ族(Kinda)に置いた。ヒムヤル族(Himyarites)は中央アラビア全体に影響を及ぼす或る種の従属関係を築いていた。

 

 

五世紀の後半にキンダ族(Kinda)は南アラブ部族に属して居たにもかかわらず中央アラビアの諸族を一つの強い連合に結束させた。諸族の中に卓越したバクル(Bakr)グループが居た。渾名がアーキル・ムラール(Akil al-Murar)と呼ばれるキンダ(Kindite)の指導者フジュル(Hujr)はラフム(Lakhmid、ヒーラ(Hirah)のアラブ部族首長)の影響下にある東アラビアのバクル(Bakr)の領土を自由に通行できた。西暦490年に没するまでにフジル(Hujr)は恐らくヤマーマ(al-Yamamah)を含む中央アラビアの殆どを支配していた。フジュル(Hujr)の孫のハーリス・イブン・アムル(Harith ibn 'Amr)の生涯がキンダ族の興隆の最盛期を代表していた。ハーリス(Harith)はラフム(Lakhmids)を征服しその首都のヒーラ(Hirah)を占領した。ハーリス(Harith)はさらに多くの部族と連合しビザンチン帝国の領土やサーサーン朝のメソポタミアに侵攻した。ハーリス(Harith)はビザンチン帝国との国境地帯における部族の盟主としてガッサーン朝(Ghassanid)の為政者を交代させた。ハーリス(Harith)の没した西暦528年までにラフム(Lakhmids)はサーサーン朝(Sasanian)の援助でその領土を奪回した。それでもハーリス(Harith)の帝国はヒジャーズ(Hijaz)、ナジュド(Najd)、ヤマーマ(al-Yamamah)および東アラビアから成る広大な地域を確保していた。

 

キンダ族(Kinda)の偉業はアラブ部族に先例の無い一体感を作り出した。ヤマーマ(al-Yamamah)に関してはバクル・イブン・ワーイル族(Bakr ibn Wa'il)の多くは間違いなくキンダ(Kindite)の拡張で示された機会に魅了されて、争いで引き裂かれた集落を離れ、或る者達は遊牧生活に戻り、他の者達は傭兵となった。実際にバクル(Bakr)部族はキンダ族(Kinda)連合の盟主としての部族と成った。西暦550年までバクル(Bakr)族は兄弟部族のタグリブ(Taghlib)族と反目し、その反目はマッカ(Makkah)の援助で休戦に合意するまで解決しなかった。依然として、キンダ族(Kinda)が実際に伝えた定住生活が続き、恐らくバヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門はヤマーマ(al-Yamamah)の定住人口の大半を占める様になった。ヤマーマ(al-Yamamah)は実り豊かであったのでムタラッミス(Mutalammis)の詩の中にも「ジャウン(Jawn)城は立っている。臆しもせず今でもその塔楼はめぐり回る年月を眺めている。ヒムヤル(Himyar)の王達に逆らって、遠い昔に、その壁は今では新しく白く塗られた。ヤマーマに来い!穀物は実る、製粉機がキィキィときしる程積み上げ。今は取り入れで密蜂、スズメバチやトンボに合わせ生き生きと鼻歌えを歌う時」とキンダ族(Kinda)統治下の穀物生産地として登場している。

 

多分ヤマーマ(al-Yamamah)生まれのムタラッミス(Mutalammis)は当時の偉大な詩人でキンダ(Kinda)の王族イムルカイス・イブン・フジュル(Imru'l-Qays ibn Hujr)であり、イスラーム以前の詩が残っている一番古い時代である六世紀の初期を詳しく物語っていた。古代アラビア語で書かれた初期の韻文は前の時代の発展を暗示する成熟した立派な伝統に成っていた。ムタラッミス(Mutalammis)はその詩の中でヤマーマ(al-Yamamah)の安定し豊富な収穫を生き生きと描いていた。この地方はキンダ族(Kindite)の支配にあり、ジャウン(Jawn)と云う名のフジュル(Hujr)の二人の息子の一人がヤマーマ(al-Yamamah)を統治したと言われている。ヒムヤル(Himyar)とヤマーマ(al-Yamamah)の為政者はヒムヤル(Himyar)とキンダ(Kinda)の間の歴史的な同盟にもかかわらず争っていた事をその詩は暗示している。その様な明らかな例外に結びつく不和がキンダ(Kinda)族の間でも起きていた。西暦528年のハーリス(Harith)の没後にキンダ(Kinda)連合はその息子達の血なまぐさい争いで崩壊した。ハーリス(Harith)の孫イムルカイス・イブン・フジュル(Imru'l-Qays ibn Hujr)はビザンチン帝国(Byzantium)の援助を得てキンダ(Kinda)の支配力を取り戻そうとしたが果たせなかった。ヤマーマ(al-Yamamah)ではキンダ(Kinda)族から分かれたジャウン(Jawn)一門がタミーム族(Tamim)とアミール族('Amir)の反目に巻き込まれて行き、激しく敗北した後、ジャウン(Jawn)一門は西暦543年に故郷のイエメンのハドラマウト(Hadramawt)へと移住して行ったと言われて居る。

 

4.5 ハウザ(Hawdha)、アシャ(al-A'sha)およびムサイリマ(Musaylima):王族、詩人および偽預言者

 

キンダ族(Kinda)の出立はヤマーマ(al-Yamamah)に空白をもたらした。それを埋めたのが既存のこの地方の住人と成って居たバヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門であった。この時までにハニーファ(Hanifah)一門はイラクまで移動し遊牧する他のバクル族(Bakr)とその定住の度合いで区別されていた。バヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門はハジュル(Hajr)と涸れ谷イルド(Wadi al'Ird)の集落を支配していた。これ以後、涸れ谷イルド(Wadi al'Ird)は涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)として知られ、この名は今日もその儘残っている。その他の大きな集落としては涸れ谷クッラーン(Wadi Qurran)の中のクッラーン(Qurran)、マルハム(Malham)および要塞都市マンシフ(Mansif)がある。もし西暦580年の詩の内容を信用するのであればイラク国境のバクル族(Bakr)の他の一門との結びつきはかなり強く残っていた様だった。

 

「バクル族(Bakr)、全てのイラクの広大な平原は彼等の物だ。しかし、もし彼等が望めばそびえ立つヤマーマ(Yamamah)の谷から彼等の家を守る為の援軍が来るだろう」と語られているのはバヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門の具体的な武勇を強調している。すでにバヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門はほぼこの頃までに他のバクル族(Bakr)とは独立した部族として考えられていた。バヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)の特別な特質と才能がこの一門にバクル族(Bakr)とは異なった利害関係を与えていた。この一門はイスラーム以前の数十年間に全く定住化したが同じ様に定住に適したアフラージュ(al-Aflaj)、カスィーム(al-Qasim)、スダイル(Sudayr)およびワシュム(al-Washm)等ナジュドの別の地方に住んでいた部族はまだ遊牧生活を営んでいた。ハニーファ(Hanifah)一門は対照にヤマーマ(al-Yamamah)をアラビア全体で最も実り豊かな農業地帯にした。ナツメヤシは勿論豊富に育ったが、もっと顕著であったのは小麦が遠くマッカ(Makkah)に移出する程に収穫され居た事である。

 

六世紀後半までに陸上交易は復活しアラビア湾からイエメンに至る隊商路が蘇った。ハルジュ(al-Kharj)はこの陸上交易から利益を得る枢軸の位置にあり、ヒドリマ(Khidrimah)がハナフィー(Hanafi)の中心的集落として出現した。繁栄は再び定住した人々に有利で遊牧民に不利となった軍事的な均衡に基づいていた。ヒドリマ(Khidrimah)のハナフィー(Hanafi)為政者は先ず西暦600年のマスラマ・ イブン・カタダ(Maslama ibn Qatada)次いでハウザ・イブン・アリー(Hawdha ibn Ali)であり、遊牧民でも特に有力なタミーム族(Tamim)に対して覇を唱え、南ナジュド(southern Najd)を横切る隊商交易の保護に大きな役割を果たした。これ故にそして予想通りヒドリマ(Khidrimah)の為政者はサーサーン朝(Sasanians)ペルシアから親交を求められていた。

 

(注)ヒドリマ(Khidrimah) ハルジュ(al-Kharj)にあるかつてのジャウウ・ヤマーマ(Jaww-Yamamah)

 

ハウザ(Hawdha)と多くのバヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門はキリスト教徒であったと言われているがキリスト単身論(Monophysite)であったのか或いはネストリウス教派(Nestorian persuasion)であったのかは定かでは無い。彼等のペルシアとの関係や東アラビアのアラビア湾岸でのネストリウス教派管轄区の存在から多分ネストリウス教派であったと思われる。新しい信仰が真摯に感じられ、人々に広まったどうか判断するのは難しい。教会を持つハニーファ(Hanifah)のキリスト教共同体は一つの源として言及されキリスト教の修道士と修道院がヤマーマ(al-Yamamah)にあった。しかしながら人々は為政者への追従の態度を表したのであって、おそらくヤマーマ(al-Yamamah)のキリスト教は多神教のアラビア信仰と共存していたのだろう。ハウザ(Hawda)自身は詩人アシャ(al-A'sha)によれば復活祭(Easter)にタミーム族(Tamim)の多くの捕虜を解放する事で神の恵みを受けたいと願っていた。

 

イスラーム以前で最も有名な詩人の一人であるアシャ(al-A'sha)はバヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門では無く、バクル族(Bakr)のカイス・イブン・サアラバ(Qays ibn Tha'alabah)であったけれどもリヤード(Riyadh)の南のマンフーハ(Manfuhah)で生まれた。アシャ(al-A'sha)はハウザ(Hawda)と同年輩でその支持者であり、キリスト教徒でもあった。アシャ(al-A'sha)はその人生の多くをイラク国境のヒーラ(Hirah)付近でバクル族(Bakr)と過ごし、西暦605年以降のラフム(Lakhmid)の崩壊を目撃して居た。その宗教にかかわらずアシャ(al-A'sha)の詩の気風はイスラーム以前のアラビアの英雄的性質が非常に強かった。アシャ(al-A'sha)はイスラーム以前の詩人の最も優れた者達を特徴づける別離や詩の悲劇的な最後と好色な感情の両方を把握していた。忠誠、勇気および雅量と云う古い部族的美徳は男が自らの運命に取り組ませられて磨かれると云う観念と結びついている。とりわけ道徳や罪よりも個人的栄光や不名誉を強調する事は韻文にホメロス(Homer)に似た英雄的特色を与える。

 

六世紀初期のハウザ(Hawda)の時代までに新しい権力の中心がアラビアに出現した。一番顕著であったのがマッカ(Makkah)でそこではクライシュ族(Quraish)が自分達の神域の中立性に対する守護者としての立場を巧みに使って部族間の間に同盟のネットワークを作り上げた。マッカ(Makkah)の台頭で利益を得たのはハジュル(Hajr)であり、ハサー(al-Hasa)とハルジュ(al-Kharj)から西へヒジャーズ(Hijaz)への隊商路を支配した。

 

ハウザ(Hawda)はイスラーム初期の数年間を目撃するまで生きて居り、西暦630年に没する前に預言者ムハンマドとの交渉を開始した。しかしながらその交渉は結論に居たらずヤマーマ(al-Yamamah)の豊かな多くの人々は自分達の独立を保つのを好んだ。ヤマーマ(al-Yamamah)の人々は自らの預言者を擁立しヤマーマ(al-Yamamah)の指導者としてのハウザ(Hawda)の後継者とした。この預言者の名前はマスラマ(Maslama)と言い、歴史の中でムサイリマ(Musaylima)の軽蔑的な愛称として出てくる。この預言者の権力の中心はハジュル(Hajr)であってヒドリマ(Khidrimah)では無かった。

 

ハジュル・ヤマーマ(Hajr al-Yamamah)はこの時までにマッカ(Makkah)およびターイフ(Taif)と共にアラビアに幾つかある神域の一つを持っていた。ハジュル(Hajr)のハニーファ(Hanifah)はこの為に中央アラビアの部族間の争議解決や同盟の結成等の出来事に巨大な影響力をふるい、この機能の為にハナフィー(Hanafi)の為政者は超部族的な地位を得た。これが彼等の軍事的武勇、定住と農業の強い伝統と結びついてハジュル・ヤマーマ(Hajr al-Yamamah)を単に支配部族の貴族政治の中心としてと云うよりは出現しつつある国の首都の地位を築かせていた。

 

ムサイリマ(Musaylima)はイスラーム以前のアラブ社会の良く知られた特徴である他の預言者(Seers)やカヒム(Kahim)(占い師)と異なっていた。すなはちカヒム(Kahim)の超自然的世界ではポピュラーな様々なジン(Jinn)や聖霊からよりも預言者ムハンマド(Muhammad)の様に最高の存在から霊感を直接得ていると主張していた。この事からヤマーマ(al-Yamamah)の人々の間でのムサイリマ(Musaylima)の権威の根拠にはキリスト教の影響があったと思われる。ハジュル(Hajr)の様な重要な神域ではマッカ(Makkah)の預言者に対抗する為に自らの預言者を擁立しなければ成らない時代の風潮であった事も確かである。ムサイリマ(Musaylima)の伝道が預言者を真似て始まったのか或いはヤマーマ(al-Yamamah)の地元の預言者身分に基づくのかは分からないが、どちらにせよヤマーマ(al-Yamamah)の指導力はイスラームに反対してヤマーマ(al-Yamamah)の人々を結束させる強い力であった。

 

西暦633年の預言者ムハンマド(Muhammad)の没後にイスラームを受け入れ、その後イスラームから背信したアラビアの部族は初代カリフ・アブー・バクル(the first Caliph Abu Bakr)によってイスラーム信仰に戻された。初めは全くイスラームを受け入れなかったヤマーマ(al-Yamamah)は最も不屈の抵抗を続けた。少数派である部族の遊牧部門に属しイスラームを受け入れて居たスマーマ・イブン・ウサル(Thumama ibn Uthal)支配下の少数のバヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門だけがムスリム(Muslims)を支持した。ムサイリマ(Musaylima)ハーリド・イブン・ワリード(Khalid ibn al-Walid)の軍勢と戦う為に40,000人以上の男達を結集させた。彼等は涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)北部の今日のジュバイラ(Jubaylah)に近いアクラバー平原('Aqraba')で敗北するまで激しく戦った。両者とも多くの戦死者を出した。これはムスリム(Muslims)がアラビアで経験した最もすさまじい戦いであった。預言者ムハンマド(Muhammad)対する黙示であると心から思った多くの信者を含む大勢のムスリム(Muslims)が殺された。初めて彼等に書き残す約束が決められ、それが書き物のクルアーン(Qur'an)の起源となった。

 

アクラバー('Aqraba')の敗北は西暦634年であり、バヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)とヤマーマ(al-Yamamah)の人々のイスラームへの服従の時を示している。部族主義では無い国作りに向かってその道を歩むのを経験していたハジュル(Hajr)は血縁関係の忠誠心を神の前での全てのムスリム(Muslims)の兄弟関係の理想に置き換えてイスラーム教国を作ろうと云う試みであった。

 

5. イスラーム・ハジュル(634AD-1446AD)

 

アクラバー('Aqraba')の敗北の後はヤマーマ(al-Yamamah)の定住民はイスラームに服従した。バヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門はそこでの既存の集落を維持した。ハジュル(Hajr)はダマスカス(Damascus)やバグダッド(Baghdad)の強力なカリフ政府の時代の間又はハジュル(Hajr)がその支配を近隣の定住民や遊牧民の及ぼしている間はヤマーマ(al-Yamamah)の首都として残った。しかしながらバヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門は初めからイスラームの布教にかかわらなかった為にその後は南イラクの新しいイスラームの町バスラ(al Basra)に定住した他のバクル族(Bakr)の幾つかの分族について聞く様にはバヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門について耳にする事はなかった。特にバクル族(Bakr)の分族達の功績はイスラーム東方征服年代史の中で卓越していた。カリフの権威が九世紀に衰えた後、ハジュル(Hajr)はハルジュ(al-Kharj)のヒドリマ(Khidrimah)に敵対され、浸食された。ヒドリマ(Khidrimah)は二世紀前後の間、この地域の覇権(Pre-eminence)を握った。

 

新しい宗教が建物や集落の計画の為のかかわり合いを持つ社会行動に或る程度の指示をした事は確実であるし、何時どんな範囲までナジュドの集落にこの考え方が実施されたかは今では言うのが難しい。それ以前の数世紀間にその事から想定される集落の様式が変化した事を示す直接的な形跡は無い。しかしながらイスラームは基本的にその訓示を全て実行するには定住生活を必要とする宗教である。最初からムスリム(Muslim)の町には導入された金曜モスクが集落の中心の役割も担うように成って居た。特定の基本的な要件は町計画にかなり早くから現され始めて居て、例えばモスクの近隣のから祈祷時刻を知らせるムアッジン(Muezzin)の声が届かない外側には家があっては成らなかった。新しい宗教に由来するこの様な要素が例え防衛上の必要が無くても集落のより大きな核と成る傾向が取り入れられた。

 

この様な新しい制約があっても例えばこの数世紀のナジュラーン・オアシス(Najran Oasis)の様におそらく涸れ谷の流れに沿って代官の要塞や為政者の館、市場(Suq)、大きな中心モスク等と多分大商人、為政者軍隊の家族の密集した家々等で構成される中心地区を持ち、ナツメヤシの木立や果樹園の中に要塞化した家や塔楼が並ぶハジュル(Hajr)の都市構造が以前とそれ程変わらなかった事は想像できる。どの程度に要塞化されているかは言えないが現在立証されている範囲では後世に一般的と成った住民全部を収容できる個別の城塞都市では無かった様だ。

 

イスラーム発祥からの数世紀の間、自治は失われたもののハジュル(Hajr)での集落生活は途切れる事なく続いた。現在の状態から比較的繁栄した時代と衰退した時代を明確に区別するのは難しい。しかしながら例えばウマイヤ朝(Umayyad)時代の州都としてのハジュル(Hajr)に置ける強力な地方的統率力やファーティマ朝(Fatimids)の支配下でのカイロの台頭とそのアラビア湾海上交易への影響や遊牧部族によるナジュド(Najd)定住民に対する周期的制圧等幾つかの盛衰の記録は見られる。物証は不足しているけれども後世同様に環境状態も盛衰にかかわる要素の一つであった事は確実である。なお、ファーティマ朝(Fatimids)は西暦909年から1171年北アフリカに興りエジプト・シリアを支配したシーア派の王朝である。

 

預言者の伝言に対するバヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門の最初の抵抗故にバヌー・ハニーファ一門には敵意のある代官がマディーナ(al-Madinah)から任命された。しかしながらハーリド・イブン・ワリード(Khalid ibn al-Walid)の手による敗北の後、犠牲者はアクラバーの戦い('Aqraba')に限られて居り、それ以降はバヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門にはまずまず寛大な条件が与えられた。二番目にムスリム(Muslim)の征服者は強力な中央権力とそれを用いたアラビア状勢の安定をもたらした。この事はヤマーマ(al-Yamamah)の定住民に対して必要は無かったけれどもこの地方の行政の中心としての明確な選択であったのでハジュル(Hajr)は重要な都市センターとして残った。中央イスラーム政府は農業投資を行い、ウマイヤ朝(Umayyad)の初代カリフ(Caliph)ムアーウィヤ・イブン・アブー・スフヤーン(Mu'awiya ibn AbuSufyan)はハルジュ(al-Kharj)のヒドリマ(Khidrimah)の農場で働く4,000人の奴隷を持っていたと伝えられている。

 

5.1ウマイヤ朝時代(The Umayyad period)

 

バヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)族は政治的信頼を長い間失った様には見えなかった。西暦657年のスィッフィーンの戦い(Battle of Shiffin)の戦いの後、イスラームはウマイヤ朝(Umayyad)の権威に逆らう事で自らを表現するシーア派(Schism)と分離した。様々な反乱運動は中でもカリフの後継問題に全イスラーム共同体による選挙の原則を導入しようとする願いやカリフ・アリー(Caliph Ali)もそのウマイヤ朝(Umayyad)後継者のムアーウィヤ(Mu'awiya)も賛成しなかった信条等があった。反抗者達はハワーリジュ派(Kharijites、去り行く者達)として知られ、幾つかのハワーリジュ派(Kharijites)運動はウマイヤ朝(Umayyad)時代のイスラーム教国を悩ませた。

 

ハワーリジュ派(Kharijites)の反乱で傑出して居たのは西暦680年のムアーウィヤ(Mu'awiya)の没後にナジュダ・イブンアーミル・ハナフィー(Najdah ibn 'Amir al-Hanafi)を指導者としたバヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門であった。ナジュダ(Najdah)は先ずアフラージュ(al-Aflaj)アーミルイブンサウサア族('Amir ibn Sa'sa'ah)を南西へと征服した。それからナジュダ(Najdah)はハサー(al-Hasa)を支配し、そこからオマーン(Oman)、イエメン(Yemen)、ハドラマウト(Hadramawt)およびヒジャーズ(Hijaz)と攻め込んだ。西暦687年にナジュダ(Najdah)はカリフの地位(Caliphate)の異議申し立て者(Contestant)としてマッカ(Makkah)に押し出した。しかしながらナジュダ(Najdah)の後継者のアブーフダイク(Abu Fudayk)が西暦692年に暗殺された後、ウマイヤ朝(Umayyad)はその権威を回復した。4年後にウマイヤ朝(Umayyad)の代官が再びハジュル(Hajr)を受け持ち反乱者達は投獄された。ウマイヤ朝(Umayyad)の代官イブラーヒーム・ イブン・アラビ・キナニ(Ibrahim ibn 'Arabi al-Kinani)は涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)のハジュル(Hajr)から明らかに離れたウヤイナ('Uyaynah)或いはマルキ(Marqi)下流のウカイル('Uqayr)と呼ばれる要塞地にその行政府を置いていたと言われている。代官イブン・アラビ(Ibn 'Arabi)支配下のハジュル(Hajr)の監獄の状態の苛酷さを詠んだ詩の中にはタミーム族(Tamim)の詩人でこの地方の人でもあるジャリール(Jarir, 650 - 728)の記録もある。ウマイヤ朝(Umayyad)支配が終わろうとしていた西暦740年代にバヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門は再び反乱を起こしている。バヌー・ハニーファ一門は領土拡大の矛先をアフラージュ(al-Aflaj)アーミルイブンサウサア族('Amir ibn Sa'sa'ah)に向けた。次の世紀にアミール('Amir) 諸族がハサー(al-Hasa)やイラク(Iraq)へと東方への移住した過程が始まって居たので、アミール('Amir)諸族はヤマーマ(al-Yamamah)の集落にとって、取り分けて脅威となって居た様だった。やがてバヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門は西暦744年にヤウム・ナッシャーシュの戦い(Battle of Yawm al-Nashshash)で激しく打ち負かされた。

 

5.2アッバース朝時代(The Abbasid period)

 

この敗北は遊牧民アーミルイブンサウサア族('Amir ibn Sa'sa'ah)に有利となるヤマーマ(al-Yamamah)の決定的な変化のきっかけと成った。又、同じ頃にウマイヤ朝(Umayyads)が崩落し、イラクのアッバース朝(Abbasids, 750-1258))に変わられた。アッバース朝(Abbasids)はナジュド(Najd)にカリフの支配を再構築し、ハジュル(Hajr)をナジュド(Najd)とハサー(al-Hasa)全体の行政の中心に選んだ。アッバース朝(Abbasids)の統治下では税金はヤマーマ(al-Yamamah)と東アラビアから額にして510,000ディナール(dinar)が集められた。この非常に多額な額はこの県が如何に繁栄していたかの度合いを示して居り、この繁栄はアッバース朝(Abbasids)のアラビア支配の弱まる九世紀中頃まで続いた。この頃がアラビア湾におけるムスリム(Muslim)海上交易の黄金時代であり、東方から豊かな積み荷はアラビア湾に運ばれ東アラビアの港はその積み荷から大きな利益を上げていた。

 

ハジュル(Hajr)を通過するアラビア横断の隊商交易には多分競争者も居たと思うが、この様な交易でハジュル(Hajr)の立場は一段と強化された。これ証明する数少ない形跡がリヤード(Riyadh)では無くドゥルマー(Durma)から出てきた。ドゥルマー(Durma)はリヤード(Riyadh)の西でトゥワイク山脈(Tuwayq range)の反対側のそれほど遠く無い場所で涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)からヒジャーズ(Hijaz)へと西に向かう旧マッカ街道に位置している。ここではアッバース朝(Abbasids)時代からの大きな市場(Suq)コンプレックスの廃墟が残っている。

 

ハジュル(Hajr)はアラビアの主要都市の一つ成ったが、アッバース朝(Abbasids)の権威の衰えでハジュル(Hajr)を含むヤマーマ(al-Yamamah)はアフラージュ(al-Aflaj)アーミルイブンサウサア族('Amir ibn Sa'sa'ah)の脅威をその前面に再び受けた。西暦846/847年のアッバース朝(Abbasids)のナジュド(Najd)への最後の遠征は定住民に一時的安定をもたらしたがアッバース朝(Abbasids)は担当代官を置かずに撤退した。これに続く数世紀の間の地方統治への復帰で涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)の町々は分裂弱体化し、これ以降は遊牧民同盟、ハルジュ(al-Kharj)やハサー(al-Hasa)のもっと力のある隣人の成すがままとされてしまった。

 

5.3 ハジュル(Hajr)とヒドリマ(Khidrimah)のバヌー・ウハイディル(Banu al-Ukhaydir)

 

アッバース朝(Abbasids)の衰退と共に九世紀後半には分離主義イスラーム分派が中央および東アラビアにあらわれた。ムハンマド・ウハイディル(Muhammad al-Ukhaydir)と云う名のザイド派(Zaydi)反逆者が反乱に失敗しヒジャーズ(Hijaz)から引き上げて来た。ムハンマド・ウハイディル(Muhammad al-Ukhaydir)はヤマーマ(al-Yamamah)の政治的軍事的に空白に乗じてハルジュ(al-Kharj)に支配を確立し、ヒドリマ(Khidrimah)をその首都とした。

 

バヌー・ウハイディル(Banu al-Ukhaydir)の支配は少なくとも200年続いた。バヌー・ウハイディルはこの間に涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)およびヤマーマ(al-Yamamah)の伝来の北部地域である涸れ谷クッラーン(Wadi Qurran)にクッラーン(Qurran)やヤマーマ(al-Yamamah)のその他の場所の人々を無理やりに移住させ、その支配を広げたと思われる。この移住はバヌー・ウハイディルの支配の初期に起き、「バヌー・ウハイディルは不当で圧制的な為政者であった」との言い伝えがある。

 

どの様に意識で起きようと定住民の移住は同じ時期の遊牧民の移動に確実に反映される。九世紀および十世紀にはアーミルイブンサウサア族('Amir ibn Sa'sa'ah)の南ナジュド(southern Najd)から東アラビア、イラクおよびシリアへの移動が見られた。この過程でアーミルイブンサウサア族('Amir ibn Sa'sa'ah)は既にヤマーマ(al-Yamamah)の定住民への圧力に成っていたと見られる。アーミルイブンサウサア族('Amir ibn Sa'sa'ah)のハサー(al-Hasa)への移住はそこでのカルマト派(Qarmatians)の出現と同時に起きて居り、アーミルイブンサウサア族('Amir ibn Sa'sa'ah)はカルマト派(Qarmatians)の覇権のアラビア半島の多くの場所やそれ範囲を越える急速な拡大に貢献した。アーミルイブンサウサア族('Amir ibn Sa'sa'ah)はこの征服の機会を利用して、アラビアからの遊牧民移住の大昔からの型通り、シリアおよびイラクの国境に支配を確立した。

 

九世紀後半から十世紀は疑いも無くナジュド(Najd)の内や東アラビアに政治的な動乱が起きた時代である。ハサー(al-Hasa)のカルマト派(Qarmatians)は西暦928年にバヌー・ウハイディル(Banu al-Ukhaydir)に重大な敗北を負わせた。イスマーイール派(Isma'ili)から派生したその極端な教義はその支配の初期の西暦930年までにカルマト派(Qarmatians)を現実的にイスラームから切り離した。アラウィー派(Alawite)の教義とイスマーイール派(Isma'ili)の教義の間の類似性はバヌー・ウハイディル(Banu al-Ukhaydir)とカルマト派(Qarmatians)の結束を象徴して居り、それがバヌー・ウハイディル(Banu al-Ukhaydir)がその限られては居たにせよその支配する領地を残すのを許された理由だと思われる。

 

この時代の特徴であったと思われる定住民と遊牧民の移住の要因は単純に不利な政治的な状況で作られたのでは無く、干魃や井戸の枯渇等幾つかの地方的災害によってさらに強まった。

 

しかしながらその一方でヤマーマ(al-Yamamah)の州都のハジュル(Hajr)は十世紀には上質のナツメヤシを生産し、アフラージュ(al-Aflaj)の大きなオアシス群を含めて農業的に繁栄していた。さらにイルド('Ird)は涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)の中にあり、ハサー(al-Hasa)のハジャル(Hajar)からマッカ(Makkah)に至る巡礼路の宿場の一つであった。当時もまだ涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)、アリード(al-'Arid)、ハルジュ(al-Kharj)およびアフラージュ(al-Aflaj)を含んだヤマーマ(al-Yamamah)地方にはその中心であるハジュル(Hajr)を始め、マンフーハ(Manfuhah)、ワブラ(Wabrah)、アウカ('Awqah)、ガブラ(Ghabra')、ムハシュシャマ(Muhashshamah)、アッマリイヤ('Ammariyyah)、ファイシャン(Fayshan)、ハッダル(Haddar)、ダヒク(Dahik)、トディフ(Tudih)、ミグラト(Miqrat)、サル(Sal)、サラミイヤ(Salamiyyah)、クライヤ(Qurayyah)、マジャザ(Majazah)、マワン(Ma'wan)およびナクブ(Naqb)等の集落があった。又、ヒドリマ(Khidrimah)も巡礼路の重要な町であり、マディーナ(al-Madinah)より小さいがナツメヤシ、果樹や小麦がもっと豊かに実っていた。

 

これらを考慮するとこの時代の移住の要因としての干魃の要素は差し引いて考えるべきであり、ハルジュ(al-Kharj)へのバヌー・ウハイディル(Banu al-Ukhaydir)の到来やハサー(al-Hasa)のカルマト派(Qarmatians)支配権が政治的不安定さと明確では無いにせよ涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)の幾つかの集落で人口減少の前触れと成った。

 

例えば十一世紀のアフラージュ(al-Aflaj)は水が豊かであるがそこの集落は確執と混乱の状態にあり深刻に衰退して居たがまったく同じ時期にむしろ反対にハルジュ(al-Kharj)では干魃又は農業衰退の兆しは無かった。この様に十一世紀のアフラージュ(al-Aflaj)の衰退は気候的な要因よりはむしろ政治的な要因で起きていた。

 

当時のヤマーマ(Yamamah)は大きな古い城でその麓には町と市場が広がり、市場には取引を業とする職人が商売をしていた。この地域を長い間支配してきた為政者であるアミール(Amirs)はアリー(Ali)の子孫であり、近傍に力のある王やスルターン(Sultan)が居らず、アラウィー派(Alawites)自身が或る程度の力を持って居たので誰も彼等の支配を奪えずに居た。事実、ヤマーマ(Yamamah)は戦場に300から400騎の騎馬兵を派兵出来た。ここの住人はザイド派分族に属している。ヤマーマ(Yamamah)地域は流水路と地下水路で分割されナツメヤシの果樹園があった。流水路と云っているのはヤマーマ(Yamamah)南部のハルジュ(al-Kharj)の大きな天然のカルスト(Karst)池(鍾乳洞の出入り口に出来た池)から給水される地表にある灌漑用水路であり、地下水路とはペルシアが発祥でイスラーム以前から南ナジュド(Najd)で使われて居たカナート(Qanats)と呼ばれる流水路に沿って井戸を掘り、その井戸の底を水平坑でつないだ地下水路システムである。

 

この当時のヤマーマ(al-Yamamah)は地方の水準であれば十分に繁栄して居た。ハサー(al-Hasa)のカルマト派(Qarmatians)の勢力は衰えかけて居りヤマーマ(al-Yamamah)に対するアーミルイブンサウサア族('Amir ibn Sa'sa'ah)遊牧民の圧力は九世紀および十世紀のカルマト派(Qarmatians)の遠征で北方に除かれていた。このために表面上はこの時代には涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)とハルジュ(al-Kharj)の集落が勢力を競っている様に見えた。既に300年間の世に知られて居ない時代に入って居た。バヌー・ウハイディル(Banu al-Ukhaydir)の支配の終焉に関して何も知られて居ないし回教歴史学者もこの終焉の後のヤマーマ(al-Yamamah)の中心となった町についても統一した見解は無い。何れにせよヤマーマ(al-Yamamah)がそうありそうな様に独立した一群の町に成って行ったのでは無いか。

 

それでは何故この衰退が世に知られてないのか。確実な答えは無いがおそらく九世紀後半から十世紀の間にアラビア湾の伝統的な交易の多くがエジプトのファーティマ帝国(Fatimid Empire, 909 - 1171)を中心とした紅海交易に奪われて居た為だろう。これがヤマーマ(al-Yamamah)や涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)を経由した陸上交易の隊商路が衰退する原因となり、その定住民も地域資源だけで生存できる水準まで減少したのだろう。

 

十二世紀になるとその状況は少し変わって来た様だ。ハジュル(Hajr)はそれまでに廃墟と成ったが、その一方で涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)では一般的に農業が繁栄し、その流れに沿って多くの集落、耕作地や木立があった。ヤマーマ(al-Yamamah)は特定の集落では無く地方の名前であり、この中の幾つかの集落は今日まで残存している。これらは涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)の上流の’ アッマリイヤ('Ammariyyah)からリヤード(Riyadh)地区のマンフーハ(Manfuhah)を抜けてハルジュ(al-Kharj)のサル(Sal)やサラミイヤ(Salamiyyah)を通り南ナジュド(Najd)のアフラージュ(al-Aflaj)のハルファ(al-Kharfah)に及んでいる。

 

ハジュル(Hajr)が十一世紀および十二世紀に衰退したのは干魃とはあまり考えられない。一般的にはバヌー・ウハイディル(Banu al-Ukhaydir)をヒドリマ(Khidrimah)からの支配の中で崩壊させたとか、ハジュル(Hajr)はカルマト派(Qarmatians)の手に落ちたとかあるいはハジュル(Hajr)はマンフーハ(Manfuhah)の様な涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)の中の近い集落からの支配(Ascendancy)又は内部争いやベドウインの支配の犠牲になる様なナジュド(Najd)の定住民に襲いかかった断続的な政治的災難に因ると思われる。

 

この時代以降のヤマーマ(al-Yamamah)には古い州の形跡は殆ど無いことから政治的に経済的に定住民がもっとも衰退していたのが分かり、下ナジュド(Lower Najd)は遊牧民が優勢となる別の周期に入った様に思える。定住民は外部に対する防衛能力が無くなり、内部の結束を失うに連れてその数を減らして来た。最初にこの傾向を暗示したのは多分十一世紀のアフラージュ(al-Aflaj)であり、この傾向は十三世紀まで続いて居た。十三世紀にはその後の世紀におけるリヤード(Riyadh)地区の人口の重要な部分であったムギーラ族(Mughirah)の分族タイイ(Tayyi)族の先祖のバニー・ラーム族(Bani Lam or Banu Lam)、ファドル族(Fadl)やカスィール族(Kathir)がナジュド(Najd)で台頭し、新しい遊牧民同盟を結成した事で知られている。再びアーミルイブンサウサア族('Amir ibn Sa'sa'ah)グループの同盟が十三世紀には東アラビアばかりでは無くヤマーマal-Yamamah)でも台頭した。アーミルイブンサウサア族('Amir ibn Sa'sa'ah)の中で勢力のあるバヌー・アミール・イブン・ウカイル族(Banu 'Amir ibn 'Uqayl)アーミルイブンサウサア族('Amir ibn Sa'sa'ah)の中の他のグループであるバヌー・キラーブ(Banu Kilab)からヤマーマ(al-Yamamah)の支配権を引き継いだ。

 

バヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門の同門のヤズィード一門(Al Yazid)やバヌー・ナズヤド一門(Banu Mazyad)が十四世紀中頃にはまだ涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)、涸れ谷クッラーン(Wadi Qurran)、フール(Fur')及びハルジュ(al-Kharj)での人口的に優勢な勢力であったのでバヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門はその古い集落を占有続けていた。

 

十四世紀までにはハジュル(Hajr)は復活して来た。偉大な旅行者であるイブン・バットゥータ(Ibn Battutah)は西暦1331-2年にハジュル(Hajr)を訪れ、そこからアミール・トゥファイル・イブン・ガニム(Amir Tufayl ibn Ghanim)の随行員に混じって巡礼を行った。当時はハジャル(Hajar)と呼ばれていたハサー(al-Hasa)は他の場所には見られない良い品質のナツメヤシがある為に、「ハジャル(Hajar)へナツメヤシの実を運ぶ運搬人の様だ」と諺に言われ、良く知られた土地であった。同じ頃、ヤマーマ(al-Yamamah)もハジュル(Hajr)と呼ばれ、水の流れと木立のある美しい豊かな市であり、バヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門が大半を占めると云う他の地方とは異なったアラブ部族が住んで居り、そこが昔からバヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門の土地であった事が分かる。この頃のハジュル(Hajr)の人々は正統派のスンニー派(Sunnis)でバヌー・ウハイディル(Banu al-Ukhaydir)の昔の首長の様にアラウィー派(Alawites)では無いと思われる。ハジュル(Hajr)の復興した集落はハナフィー首長(Hanafi amir)の下で平和に結束して暮らして居た。

 

イラクと東方の間の海上交易もおおいに回復し、十四世紀初めに伝説的な富をもたらした商業帝国を築く過程でホルムズ(Hormuz)はアラビア湾内のカイス(Qays) からアラビア湾南部およびオマーンの交易と港のどちらも引き継いだ。ハサー(al-Hasa)のアラビア湾交易への貢献は真珠、デーツそして印度から需要が増えた来た馬であった。東アラビアの馬の交易は少なくともマルコ ポーロ(Marco Polo)がオマーンからの活発な輸出について述べた少なくとも西暦1290年迄には既に繁盛していた。涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)やハルジュ(al-Kharj)の住人が儲けの多い馬の交易を行っていた事はおおいに有り得る。もしそうであればナジュド(Najd)の隊商路は十四世紀および十五世紀に再び活発に成って居ただろう。

 

5.4 ハサー(al-Hasa)のジャブリード(Jabrids)

 

十四世紀と十五世紀の涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)とハルジュ(al-Kharj)の町の住人の状況はアーミルイブンサウサア族('Amir ibn Sa' sa' ah)から続くハサー(al-Hasa)の為政者に支配されていた。十五世紀半ばにおけるアーミルイブンサウサア族('Amir ibn Sa' sa' ah)のある一門の指導者家族であるジャブリード(Jabrids)が前任者のウスフーリード(Usfurid)から支配を受け継いだ。ジャブリード(Jabrids)はその実力と敬虔さおよび公平さの尊重およびウラマー('Ulama')で名声を得て居た。交易は栄え、ジャブリード(Jabrids)は巡礼を非常に重要視した。ジャブリード(Jabrids)の最初で著名な為政者アジュワード・イブン・ ザミール・ジャブリー('Ajwad ibn Zamil al-Jabri)はヤマーマ(al-Yamamah)を経由して西暦1472年に多くの人数、西暦1483年に駱駝20,000頭、西暦1488年に駱駝15,000頭のアラビア横断の大巡礼団をそれぞれ送った。この様な行事は敬虔さと同じ様にジャブリード(Jabrids)が東アラビアとナジュド(Najd)にもたらした政治的支配と安定の証であった。巡礼団には勿論ヤマーマ(al-Yamamah)からの多くの巡礼も含まれて居た。事実、ジャブリード(Jabrids)のヤマーマ(al-Yamamah)の古い地域への影響は定住生活の価値観を強め、支持された。ジャブリード(Jabrids)の威光が東アラビアの遊牧民および定住民に広がるに連れて、ジャブリード(Jabrids)はハルジュ(al-Kharj)周辺のナジュド(Najd)のムガイラ(Al Mughirah)、ダワースィル(Dawasir)、ファドル(Al Fadl)、アイド(Al 'A'idh)およびスバイウ(Subay')等殆どの遊牧民に向けて戦闘を行った。そうする事でアーミルイブンサウサア族('Amir ibn Sa'sa'ah)の諸族やその同盟の部族の為にジャブリード(Jabrids)は放牧地をナジュド(Najd)に比較的新たらしく入って来た諸部族から守ろうとしたのだろう。しかしながらこの戦闘は隊商路、巡礼路の安全を保障し定住民の中の同盟部族を支援し、遊牧民と町住人の間の離反関係を一般的に罰する目的も或る程度あったとのだと思われる。ジャブリード(Jabrids)は基本的には遊牧民の首領と云うよりは定住民の首長(Amirs)であり、部族的忠誠を広範囲な為政者(ウラマー、'Ulama')への服従に代える事で分裂しがちな部族的状況に統一をもたらそうとしていた。そうすることで「ナジュド(Najd)の信心深い定住民の首長(Amirs)と成ろう」と云う復古的な目的を成し遂げようともしていた。

 

更に十五世紀はナジュド(Najd)の定住民にとって政治的に順調な時代であっただけでは無く、良好な気候の時期でもあった。地方的歴史に対して気候や病害やイナゴ発生等の政治以外の要素についてもその影響が大きかった事を初めて物語っていた。十五世紀は特に雨は多く干魃は殆ど無く、今日の伝統的なナジュド(Najd)の町や村の多くはこの世紀およびそれに続く世紀にその発祥を辿れる。特にサウジ公国の発展の重要な役割を特に果たした町の一つである涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)のディルイーヤ(Dir'iyyah)の発祥もこの時代である。当時の下ナジュド(Lower Najd)の人々は様々な理由で今日まで維持されて来た定住と云う生活形態の価値が有利となる歴史的変化の間際に居た事になる。

 

6. 集落の再成長(涸れ谷ハニーファの部族生活(1446AD-1600AD)

 

6.1 新しい定住者とハジュル(Hajr)の衰退

 

十五世紀は下ナジュド(Lower Najd)の集落が次第に復帰し始めた事に特徴がある。前述の様にこれ以前の数世紀はベドウイン部族との関係で集落の力が衰退して居た。ハジュル(Hajr)においても西暦1331-2年のイブン・バットゥータ(Ibn Battutah)の滞在した時期までには定住生活の限定的復活への幾つかの兆候が明らかであったが、依然として人口の復帰の広がりや集落の基礎の始まったと言えるのは次の世紀に成ってからである。

 

この過程の要素は十五世紀半ばから十七世紀初期にわたって続いた環境条件の改善であった。前章で述べた様に集落の復帰はハサー(al-Hasa)のジャブリード(Jabrids)のヤマーマ(al-Yamamah)およびアリード(al-'Arid)への侵略、十四世紀および十五世紀のホルムズ(Hormuz)の覇権下のアラビア湾交易の繁栄におそらく助けられたのだろう。

 

十五世紀半ばはナジュド(Najdi)の地方年代記が集落の歴史に焦点を当て始めた時期とも単に偶然の一致では無い。これらの年代史はそれら自体が新しく出来た町の所産であり十七世紀初めからのこれらの年代史の出現がナジュドの町々と定住生活が育成した知識的研究の復活のしるしである。これらの年代史は定住生活とその為政者家族の出来るだけ記録する事が重要であった。涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)の最も重要な二つの町ウヤイナ('Uyaynah)とディルイーヤ(Dir'iyyah)は両方ともこの時代にその発祥を辿れる。

 

下ナジュド(Lower Najd)の町の多くは元々の住人によってでは無く、新たにやって来た人々によって作られたり復活させられたりした。タミーム(Tamim)の古くからの定住部族は新しい集落に移住するのに取り分け積極的であった。ワシュム(al-Washm)の初期の集落やシャンマル山塊(Jabal Shammar)のクファール(Qufar)からタミーム(Tamim)は数を増やし、涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)、スダイル(Sudayr)およびカスィーム(al-Qasim)へと移住した。タミーム(Tamim)は移住先で新たな集落を築いたり、既存の集落に参入したりした。そういう中でウヤイナ('Uyaynah)は発祥した。その場所はタミーム(Tamim)が十五世紀半ばにバヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門のヤズィード(Al Yazid)から買い取った。下ナジュドのタミーム(Tamim)の他の大きな集落としてはワシュム(al-Washm)のサルミダー(Tharmida')、ウシャイキル(Ushayqir)やスダイル(Sudayr)のラウダ(Rawdah)がある。

 

放牧民も西暦1500年直後のナジュド(Najd)におけるジャブリード(Jabrid)勢力の衰退の後では特に集落の増加に貢献した。十八世紀のシャイフムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブ(Shaykh Muhammad ibn 'Abd al-Wahhab)のイスラームの宗教的改革運動前の300年間は遊牧民の連続した移動の波は下ナジュド(Lower Najd)に引きつけられ、これは十五世紀後期から十六世紀の一般的な気候の好適化によるものと思える。人口密集の結果としての問題は十七世紀のうち続く干魃によって悪化させられたが、それは定住化と再移住を行う事で解決された。その中でも積極的だったのがアフラージュ(al-Aflaj)、マフマル(Mahmal)およびスダイル(Sudayr)に定住した涸れ谷ダワースィル(Wadi al-Dawasir)のダワースィル族(Dawasir)、アナザ('Anazah)のバニー・ワーイル族(Bani Wa'il)およびハルジュ(al-Kharj)のアイド族(Al 'A'idh)であった。

 

バヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門は集落に対する新しい刺激に対応出来ず、概してその勢力を増大出来なかった。その代わりに自分達の方が新来者に飲み込まれがちであった。十四世紀にバヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門の末裔と考えられて居たヤズィード(Al Yazid)は多分そこ頃までには村とほぼ同じ規模に成って居た涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)、涸れ谷クッラーン(Wadi Qurran)およびハルジュ(al-Kharj)の古い集落を依然として支配して居た。十五世紀の中頃迄はディルア(Al-Dir')又はデュル’(Duru')と云う同じくバヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門の別の一門がディルイーヤ(Dir'iyyah)の場所を含むハジュル(Hajr)およびジズア(Jiz'ah)を支配し、ヤズィード(Al Yazid)はこの涸れ谷を北へウサイル(Wusayl)およびナアミイヤ(Na'amiyyah)の集落を含みジュバイラ(Jubaylah)まで確保して居た。バヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門のもう一つの末裔マワリファ(Mawalifah)一門が記録されているがその場所については明示されて居ない。

 

ウヤイナ('Uyaynah)やディルイーヤ(Dir'iyyah)の様なバヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門の領地で好適な地域でも定住や農業には利用されて居なかった。十七世紀のナジュド(Najd)の最大の町ウヤイナ('Uyaynah)と成った場所のこの時のタミーミ(Tamimi)への売却はバヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門の数と勢力の衰退を示している。

 

大規模な農園として知られ中世の地理学者によって記述されたクッラーン(Qurran)、マルハム(Malham)、アクラバー('Aqraba')、ウバド(Ubad)、ハッダル(Haddar)、ヒドリマ(Khidrimah)およびハジュル(Hajr)等の大きなハナフィー(Hanafi)集落は衰退したり、他のグループに引き継がれたりした。十七世紀迄ではマンフーハ(Manfuhah)、ハジュル(Hajr)の一部でリヤード(Riyadh)に成った場所であるムクリン(Muqrin)とディルイーヤ(Dir'iyyah)のたった三つの集落がバヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門の末裔の家族に支配されていたに過ぎない。十八世紀になるとこれらの町にハナフィー族(Hanafi)出身の僅かな家族が残って居るのみであった。この家族の中で一番目立ったのディルイーヤ(Dir'iyyah)のムラダ(Muradah、サウード(Al Saud)の一門)、リヤード(Riyadh)のザルア(Al Zar'ah)、ムダイリス(Al Mudayris)、スハイム(Al Suhaym)ドゥガイスィル(Al Dughaythir)およびマンフーハ(Manfuhah)シャアラーン(Al Sha'lan)であった。

 

ディルイーヤ(Dir'iyyah)の発祥の話は十五世紀までの涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)一門の人口減少を説明している。ハジュル(Hajr)とジズア(Jiz'ah)のディルア族(Al Dir')の首領であったイブン・ディルア(Ibn Dir')はこの地方の親族の数を増やそうと望み自分の領土に農地となる場所が豊富にある事を認識した上で、アラビア湾のカティーフ(Qatif)nの近くのディルイーヤ(Dir'iyyah)と云う場所に住んでいたムラダ一門(Muradah clan)の親戚を招いた。彼等は西暦1446年に到着し、イブン・ディルア(Ibn Dir')マーニア・ムライディー(Mani' al-Muraydi)を首領とする彼等にヤズィード族(Al Yazid)の領地と接している自分の領土の北部分のガースィバ(Ghasibah)およびムライビド(Mulaybid)地区を与えた。ムラダ一門(Muradah )は自分達の故郷に因んで新しい集落にディルイーヤ(Dir'iyyah)と云う名を付けた。後に改革運動の中心と成るように運命付けられたディルイーヤ(Dir'iyyah)はこの新しい血の注入で急速に拡大した。数年でムラダ一門(Muradah )はヤズィード族(Al Yazid)の領地の残って居た部分を奪い取った。十六世紀の初め迄に涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)の全ての集落への支配力はジュバイラ(Jubaylah)を境にしてウヤイナ('Uyaynah)とディルイーヤ(Dir'iyyah)に分割された。ディルイーヤ(Dir'iyyah)は新しい定住者を引きつけ交易商がしばしば出入りした。

 

ディルイーヤ(Dir'iyyah)の台頭の結果としておそらくハジュル(Hajr)は十六世紀迄に前世紀まで保って居た結合力を失った様でその後はハジュル(Hajr)と云う名で引用される事は無くなった。その代わりにそこはムクリン(Muqrin)、ミアカル(Mi'qal)、ウド('Ud)、バンヤ(Banya)、スリア(Suli'a)およびハッラブ(Kharrab)等の多くの小さな村に分散した。これらは全て以前にはハジュル(Hajr)の町に含まれるか、属して居たと考えられている。西暦1578年にこの地域がマッカ(Makkah)のシャリフ(Sharif)に攻撃された時にはハジュル(Hajr)と云う名は使われず、おそらく以前のハジュル(Hajr)の中心が残ったミアカル(Mi'qal)と云う名で呼ばれた。

 

これらの分離した集落が前の時代のハジュル(Hajr)の特徴の鍵と成ってくれている。涸れ谷バサー(Wadhi Batha)の洪水平原にあるナツメヤシ畑や農園の間にある集落がおそらく何時もその鍵を構成している。前の時代にはこの場所に政治的に経済的に重要であった時にその為政者家族と政府の中心があったので、この集落群が合わせてハジュル(Hajr)として知られて来たのだろう。ハジュル(Hajr)の衰微とそれまでは結束を保たせて来た中央要塞や政府の中心の消滅によってハジュル(Hajr)を構成して居た集落はそれぞれの主体性を打ち出した。

 

リヤード(Riyadh)の中心の現在のキング・ファイサル通り(King Faisal)あるいはワジル通り(Wazir)に立つアリー・シャフィル・バサー(Ali Shafir al-Batha)の要塞(qasr)を表示する為にハジュル(Hajr)と云う名は現実にごく最近まで使われ続けた。最後にこの名前の使われ方は軽くなっては居るが今でもこの要塞(Qasr)の井戸の名「ハジュルの井戸(Well of Hajr)」として使われ続けている。

 

6.2 町部の社会構造

 

ハジュル(Hajr)がそこに根拠を置く中央支配を失って、その構成要素に分解するのは自然の成り行きである。部族的社会の組織は本質的に分裂し易く一門として、しばしば部族或いは集落の大君主の地位を競い合う前兆として各々の血統のグループが分かれその独立性を主張する傾向のある事は理解してなければ成らない。アラビアの町部では部族的或いは血統的同族が互いに政治と空間の両方で硬直化するのはまれでは無かった。その結果として単一の集落が二つ以上のかなり明確な単位で構成されていた。これらの集落はしばしば同盟し協力的な外部の勢力に対してでは無く、内部同士がお互いに厳重に要塞化し、激しくいつまでも争った。余り具体化されて無い段階で集落の中の各グループはそれぞれが互いに自らの支配権を掌握しようとする不断の抗争状態にあった。

 

家族の力と敵対が強調される部族ルールにはそれ自身に崩壊する芽が含まれて居た。多くのナジュド(Najdi)の町では競合するグループがお互いに対抗する為に継続する動乱の状態にあった。部族システム自身が持つ以上の大きなビジョンが無く、或るグループの傑出が他を圧するのは短い期間となる傾向があった。不安定さが生活の証明であるかの様な状態が十八世紀の改革運動まで続いた。

 

この章で論じる時期の始まる頃迄にナジュド(Najdi)の町の残された特徴と最近まで成っていた社会の構造は既に定まっていた。定住民はガビィリイユン(Qabiliyyun)(単数形はQabiliで部族民)、バヌー・ハディル(Banu Khadir)(ハディリイユン(Khadiriyyun)で単数形はKhadiri)とアビド('Abid)(奴隷)の三つの階層に分かれて居た。

 

ガビィリイユン(Qabiliyyun)は遊牧民であれ半定住民であれ完全な定住民であれタミーム(Tamim)の様に認知されたアラブ部族の一つに祖先を遡れる家族で構成されて居た。定住民の多くはガビィリイユン(Qabiliyyun)であり、多くの社会的な名声を持ち集落の為政者に属していた。

 

定住民の少数グループはその部族的な起源が確認出来なかった。このグループがハディリイユン(Khadiriyyun)であった。ハディリイユン(Khadiriyyun)はとても古い時代の部族定住始まりでの幾つかの段階に起源があったが、時代と共に部族的関係が弱まりついには忘れられてしまったのだろう。古い集落であってもハディリイユン(Khadiriyyun)はガビィリイユン(Qabiliyyun)に対し数の上でも社会的には劣っていた。これは十五世紀から十七世紀に起きた最後の定住の波を示しており、数の上ではナジュド(Najdi)の集落の再移住に関連して考えるべきである。

 

ハディリイユン(Khadiriyyun)は自由奴隷の子孫として考えるには数的に多すぎる。ハディリイユン(Khadiriyyun)はガビィリイユン(Qabiliyyun)が一般的に大事にした生産的な農民や商人として働いた。ハディリイユン(Khadiriyyun)はガビィリイユン(Qabiliyyun)が賤しいと考えた手工業や小売商に従事する職人でもあった。この事からハディリイユン(Khadiriyyun)は都市生活者に対してベドウイン的な振る舞いが或る程度残っている新たに定住したガビィリイユン(Qabiliyyun)よりも都市生活の需要に適応していた事が分かる。町部ではハディリイユン(Khadiriyyun)がガビィリイユン(Qabiliyyun)よりも早い定住階層を形成していた状況がさらに顕著である。

 

最後にアビド('Abid)(奴隷)が居た。アビド('Abid)(奴隷)は一番少ない定住民を成し、アフリカ人の出であった。アビド('Abid)は遊牧と定住両方の為政者や富裕な家族に家僕や家来として所有されていた。時としてアビド('Abid)(奴隷)が集落内の代表者としての力と責任のある地位に就くこともあった。ナジュド(Najd)ではその後にアビド('Abid)(奴隷)は開放された。アビド('Abid)(奴隷)は婚姻し、時と共にハディリイユン(Khadiriyyun)の一部と見なされる家族を成した。

 

ナジュドの町はその首領の家族の出であるシャイフ(Shaykh)またはライス(Ra'is) によって治められていた。シュユフ(ShuyukhShaykhの複数形)またはルアサ(Ru'asa'Ra'isの複数形)と呼ばれる家族がその集落の始めに創設した事でそこを治める権利を持って居た。或いはシャイフ(Shaykh)またはライス(Ra'is)は集落が創設された後に創設者やその継承者の子孫からその義務を強奪する事で登場した。

 

支配権を継承する権利は通常前の為政者の長男に渡された。しかしながらこれは義務では無く実際上は首領家族の有力メンバーを説得したり、そのシャイフ(Shaykh)としての優れた資質或いは力を示したりする事で兄弟、息子或いは従兄弟の誰もが自分の権利を主張出来た。継承問題の不確定さが為政者家族一門の異なる分家は首領の地位を主張して争い、それがナジュドの集落内紛争の大きな原因であった。事実、為政者家族一門が大きくなるに連れて分家も増え、この様な継承問題が増大した。

 

為政者であるルアサ(Ru'asa')又はシャイフ(Shaykh)の力は所有権に基づいている。集落を創設した貢献によって為政者家族はその土地、水源および周囲のヒマス(Himas)と呼ばれる保留された放牧地の当然権利のある所有者であると見なされていた。これ故に集落の財産は誰に売ろうと貸そうと使用を認めようと為政者であるルアサ(Ru'asa')又はシャイフ(Shaykh)が自らの裁量で処置できた。為政者の多年にわたり継続する問題は自分の集落の防衛と生き残りであり、集落内外の競争相手をどんなに犠牲にしても自分の一門の勢力増大であった。実際に為政者の土地を裁量できる権利は為政者が自分の親族であろうと無かろうと自分を支持することが期待できる新しい定住者を招き入れる事で為政者の権力の基盤を拡大する為に使われた事を意味している。新しい定住者の導入は為政者の歳入も増やした。

 

最初の創設者の後で集落に定住する者達はルアサ(Ru'asa')によって提供される保護とそこで農業或いは商業を営める機会に魅了されていた。新たな定住者達は隣人を意味するジラン(Jiran、単数形はJar)と呼ばれた。ルアサ(Ru'asa')とジラン(Jiran)の間には基本的な共存関係があり、ジラン(Jiran)が兵役とその収穫物の一部を納入する替わりにルアサ(Ru'asa')はその人々と財産の保護を引き受けた。従って社会構造の基盤は地方的な封建制度であり、その中で土地の所有は一種の兵役と納税に結びついて居た。

 

ジラン(Jiran)の収穫物の分け前は収穫時に為政者によって徴収された。その比率は決まって居らず、集落、集落で異なり、定住者と為政者の関係の度合いによって決められた様であるが50%とか25%とかの比率の記録がある。この税が土地の賃貸料とどの程度の関係していたかはハッキリしないが土地保有の契約のタイプ次第であり、50%25%および10%の率が普通だった。(下記の土地保有の章を参照。)

 

加えて物品で納税する売り上げ税があり売られたり商いしたりした物品に課せられた。又、保護の対価としての税が巡礼に課せられた。襲撃や戦役が計画されると追加税が補給の為に物納で求められた。

 

宗教的助言者であるウラマー('Ulama')が影響力を増すに連れて、生産に対する為政者グループへの明らかに専横的な税に代わって、宗教税であるザカー(Zakah)が課せられ始めた。ザカー(Zakah)は穀物、デーツ、家畜に課せられ、物納されるか為政者の代理人によって売られて現金で換金され国庫に当たるバイト・マール(Bayt al-Mal)に預金された。

 

表面上、税収入は為政者が町の防衛を維持し、その他の共通の利益になる事を整えさせる為の物であった。実際には収入の多くがルアサ(為政者、Ru'asa')の家族の構成員に配分された。ルアサ(Ru'asa')の家族は創設者の子孫として自分達に権利のある遺産の一部と考えていた。この配分のベース自体が家族の間の論争問題と成って来た。

 

中世ヨーロッパの封建制度の様にナジュド(Najdi)の町の制度も住人の利害に基づいて運営されていた様だ。為政者はジラン(Jiran、隣人)が耐えられる最高額を強要し、徴収しながらジランに対する自分達の義務を満たして居なかった。その一方、「最高の為政者とは自分の領域を守り攻められるのを拒否するライオンの様に、その民を強盗や襲撃者から保護し、遊牧民であろうと定住民であろうと自分達の領域の繁栄が保たれる様に敵に対して主導権を取り、友には優しく敵には意地悪く、ベドウイン(Bedouins)が自分達を踏みつけた時はいつでもその死体を野晒し、感情的に激しく、全力で自分達のジラン(Jiran)を守り、民の調和を保ち民から敬意をはらわれる者である」と考えられていた。

 

為政者の資質の典型はナジュド(Najid)の集落では強い者であった。一般的な意見や敬意は遊牧民のシャイフ(Shaykh)に取ってそうである様に集落の為政者がその地位を保つ為にきわめて重要であった。その権威は決して絶対では無かった。それは為政者の個性、立派な名声および説得性のある能力次第であった。従って、決定を行う際には為政者は常にルアサ(Ru’asa’)およびジラン(Jiran)双方の利益と、ウラマー('Ulama')が集落に居る場合にはその同意が得られる様に配慮していた。改革運動が出現する迄の時代ではイスラーム教の影響がナジュド(Najdi)集落の多くに浸透するに連れて為政者の資質と云う観念は強まり為政者の決定はウラマー('Ulama')によって示されるイスラーム教の公正と総意を考慮する事がますます必要な条件と成って居た。

 

しかしながらこの時代の殆どは慣習法が集落を治める基準であった。為政者は町のカーディー(Qadi)と呼ばれる判事を兼ねて居たが代わりに高名な尊敬される人物がその役に就く事もあった。十八世紀初期に改革運動が広まるに連れて、幾人かの為政者にはシャリーア(Shari'ah)法のカーディー(Qadi)の裁定は自分達の権威に対する受け入れがたい脅威であるのが分かった。この様な環境下ではカーディー(Qadi)は他の集落へと移動しただろう。

 

自分の裁定を強める内に為政者は公式に確立された行政的な権力に頼らなく成っていた。実際に為政者は奴隷と自由民の家来で構成されるボディガードを雇った。為政者が豊かな程、その数を多く出来た。自由民の家来は雇用を求める定住民か遊牧民であった。訓練された戦士の常駐の部隊として為政者のボディガードはナジュドの町々で重要な社会的政治的要素と成って居た。ボディガードはシャイフ(Shaykh)の警官、常備兵および行政官の役割を兼任して居た。

 

ナジュド(Najdi)ではその定住人口はこの地方で生産できる農作物の収穫量に見合った限界まで増える傾向があった。これは為政者家族がその勢力を自らの数を増す事と支持者に定住する事を奨励し、その数を増やす必要があった事に因る。しかしながら為政者家族が大人数に成る程、競合する派閥に分かれる傾向が大きくなった。限られた資産の配分についての論争が必然的に弱小の派閥の離散を促した。弱小な派閥は自らが新しい集落を築くか、あるいは他の既存の集落に移動した。

 

ディルイーヤ(Dir'iyyah)でも同じ事が起きている。最初の三代のシャイフ(Shaykh)の下で集落は急速に生長し、その近隣に支配を及ぼし始め、先ずディルイーヤ(Dir'iyyah)の北方のバヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門のヤズィード(Al Yazid)は追い出されその土地は収用された。ディルイーヤ(Dir'iyyah)はこの様に涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah) 南の中心となり新しい定住民ジラン(Jiran)はディルイーヤ(Dir'iyyah)に引き寄せられた。訪問者と交易商がディルイーヤ(Dir'iyyah)に群がった。十六世紀の間、大きく数を増やした為政者一門は分割始めた。分家の一つは西にトゥワイク山脈(Jabal Tuwayq)を越えてドゥルマー(Durma)に定住するために離れた。この分家はやがてそこの為政者に成った。もう一つの分家はディルイーヤ(Dir'iyyah)の北方のアバー・キバーシュ(Aba al-Kibash)へ移動した。

 

涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)の北の部分にあるウヤイナ('Uyaynah)も十五世紀の創設の後、同じ様に生長した。その為政者一門であるムアンマル(Al Mu'ammar)はその勢力を北方の古いバヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門の集落のある涸れ谷クッラーン(Wadi Qurran)へ広げた。しかしながらムアンマル(Al Mu'ammar)はディルイーヤ(Dir'iyyah)のルアサ('Ru’asa’)よりも結束力が強かった。この事でこの一門は十七世紀から十八世紀初めにウヤイナ('Uyaynah)を秀でた町に発展させた。

 

6.3 土地の保有

 

ナジュドの農民に繁栄をもたらした勤勉な労働と水源の確保は政治情勢の安定を作り出した。ジラン(Jiran)に対してルアサ(Ru’asa’)の義務を持ち、集落を外部の侵入から守り、内部の派閥を治められるのが為政者であり、現実はその保護の下に農民は生活する必要があった。

 

集落の土地の多くはルアサ(Ru’asa’、為政者)に所有されるだけでは無く、為政者自らによって雇用した小作や奴隷を使って耕作されて居た。残りの土地は集落の創設者として為政者の支配下にあったが、様々な方法で他の者達に譲られていた。それらの土地のある部分は新しい定住者を引き寄せる為に新しい定住者に与えられて居た。もう一つの普通の方法は分益小作人制であった。既に植え付けが終わり、井戸も用意された土地が小作人に提供される契約形式もあった。この契約は収穫時迄の一回限りで土地の持ち主は収穫の半分を得る権利を持った。もし土地が穀物の栽培に使われると通常の土地所有者の取り分は収穫物の10%であった。

 

分益小作人制のもう一つの形式は未開墾の土地を対象として居た。そこではこの契約は長期間で数百年にわたる事もあった。土地の所有者とその子孫は収穫物の四分の一を受け取る権利があった。土地は同じ様に数百年単位で貸し付けられる事もあった。地代は現金か物納で年単位に支払われ借地人はその土地を他の者にどの様な目的にも又貸しする権利を持って居た。

 

後者の二つの取り決めは一般的であり、この取り決めによって土地は新しい定住者に引き渡された。この期間の長いこの取り決めの特徴が世代を重ねるに連れて新しい定住者の方が地主より豊かで力を持つ様に成り、土地使用料の支払いを嫌がりナジュドの集落の問題を引き起こす原因と成った。その反対に新しい定住者によっていったん開墾された土地を地主がどうしても惜しくなり、取り戻そうとして紛争となる場合もあった。賢明な方法としてはカーディー(Qadi)或いはウラマー('Ulama')にその紛争の解決が委ねられたが、初期の段階では地域社会の争っているグループ間での武力による伝統的な解決方法が取られる傾向にあった。

 

6.4 農業

 

南西部の高地やオマーンの一部を除いて天水に頼る農業を支える程十分な降雨はアラビアの何処にも無い。南ナジュドにおいては降雨量の不足とその結果としての乾燥が地球上の何処にも匹敵する程厳しく人間社会に挑戦し、地下水がベドウインにも定住民にも等しく生存の鍵と成った。

 

アラビア半島の農業は昔も今もほぼ全面的に涸れ谷(Wadi)や沈泥平地の地表近くの地下水源からの灌漑水に頼って居る。下ナジュド(Lower Najd)の集落では昔から地下水面まで掘り下げた大きな石組みの井戸に依存して居り、畜力が水の汲み上げに使われた。この仕組みの古さはナジュド(Najd)では考古学的に立証出来なかったが、北西および北アラビアのタイマー(Tayma)ドゥーマジャンダル(Dumat al-Jandal)の井戸では紀元前1,000年代或いはそれより古い考古学遺跡が見られる。どの様な種類の定住生活も信頼できる水源に依存している事からナジュドの畜力汲み上げの井戸も中央アラビアのオアシス農業の発展と共に進歩した。

 

下ナジュド(Lower Najd)の水の所有権と使用は多くの場合にそれぞれの土地使用者の問題であった様に思われる。この問題に対する調査がさらに必要では有るが大きな共同井戸に対しては地域社会的な合意があったに違いない。新しい地所を開墾しようとする地主又は借地人は水脈の専門家が適当と見なす場所を探して、井戸を掘る準備を行っただろう。一方、ハサー・オアシス(al-Hasa Oasis)では大きな自然の集中的な湧水源に対して果樹園の持ち主が様々な権利を持つ共通の所有権の概念が必要であった。この様に下ナジュド(Lower Najd)の集落はハサー・オアシス(al-Hasa Oasis)の集落等とは違って、各々の井戸の使用者が自分達の給水を調整できた。この事実が多くのナジュドの集落での中央集権化の欠乏と小単位で広がる傾向を説明するもう一つの要素なのだろう。

 

井戸掘りは普通に隣人や親族の報酬無しの援助による協力ベースで行われた。近代にはリヤード(Riyadh)の井戸の深さは通常30 - 40mであったが十九世紀後半より古い井戸の跡は見られない。井戸は普通円形であるがカスィ(al-Qasim)では矩形の井戸もあり、円形はこの地方の好みであると思われる。完成した井戸のの姿は記念碑の様に見える。

 

サワニ(Sawani)と呼ばれる井戸の汲み上げは完全に畜力に頼って居た。ナジュドの集落では畜力は駱駝、牛、驢馬又は騾馬が使われて居た。リヤードでは近代には少なくとも驢馬か騾馬が使われ駱駝が使われる事は無かった。冬場の降雨が多く無い場合には穀類作物の灌漑は通常は12月から始まる冬の雨の前では無く秋の終わりに行う耕作種蒔きの直ぐ後に始めなければ成らなかった。この作業は作物が生長し気温が熱く成るに連れてますます厳しく成るが4月の終わりの収穫時までその後の5ヶ月間続けられる。その後の夏期月間の間はナツメヤシの果樹園の灌漑が続けられる。ナツメヤシの果樹園にはアルファルファ(Alfalfa)等の牧草、野菜や果樹が共作されている。キィーキィーヒューヒューと云う井戸の滑車の軋りが昼も夜もナジュドの集落の絶え間ない生活の音として鳴っていた。水の給水は被覆の無い水路を使って行われので漏水の量が多く、果樹園の大きさを通常1ヘクタール以下に制限して居た。

 

主要な作物は勿論デーツ(ナツメヤシの実)であった。ナツメヤシは食糧、燃料、飼料や世帯道具および建物の材料としてだけでは無く、ナツメヤシとナツメヤシとの間の部分的日陰でしか生長出来ない多くの他の作物、特に野菜や果物が育つ環境を作り出すので、この土地で集落が生存する為に極めて重要な存在であった。又、ナツメヤシは高耐塩性があるのでこの地方の環境に良く適応して居た。

 

次ぎに重要なのが小麦、大麦とキビ類であった。キビ類にはコウリャン(ズッラ(Dhurra))、ギニアとうもろこしやドゥハン(Dukhn)と呼ばれる真珠キビ又はガマキビ等があった。小麦と大麦は灌漑された土地に植えられる作物と同じ様に集落から容易に辿り着ける灌漑された土地の外側の低く横たわる沈泥平地に植えられた。植えられる場所は季節季節で変わって居た。降雨状況が良ければその場所は広げられた。涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)の集落ではハサー・オアシス(al-Hasa Oasis)と区別されるもう一つの特徴である鋤が使われた。鋤は木製で時として土壌を崩す為に鉄製の舌を備える事もあり、種を播かれ生長した後で小麦および大麦を掘り起こすのに使われた。キビ類は夏期作物として灌漑された土地で育てられた。

 

アルファルファ(Alfalfa)或いは紫ウマゴヤシ(Lucerne)はデーツ(ナツメヤシの実)、小麦および大麦に次いで主要作物であった。生き生きとした緑のアルファルファ(Alfalfa)の広々とした区画はナツメヤシの畑では一般的な風景であった。収穫後に灌漑を十分に行えば年間に34回収穫出来た。主に飼料として町の住人の所有する駱駝、馬や牛の飼料として使われた。

 

考古学から分かる様にデーツ、小麦、大麦およびコウリャンはアラビア半島のオアシス農業と同じく昔からの作物であった。野菜と果樹の栽培が何時どの様にナジュドにもたらされたのかはハッキリして居ない。ムスリムの北アフリカ。スペインおよびシシリーの征服はアラブ部族に後に中央アラビアに広められた杏、桃、西瓜、茄子等をもたらし、その一方でアラブ商人は中世にセビリア蜜柑、レモンおよびメロンを印度からオマーン(Oman)に持ち込んだ。イスラームの時代になって新しい種類の野菜や果物がナジュド(Najd)にもたらされ、食材がますます豊富になったと言える。最後に導入されたのはアメリカ大陸原産のトマト、トウモロコシやカボチャであり、少し以前に栽培される様になり、現在も育てられている。

 

従って、十九世紀以前にどの様な果樹や野菜が涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)で育って居たかを言うのは難しい。しかしながら十七紀初めから既に3世紀或いはそれ以上長く南ナジュドで広く栽培されている作物は玉葱、豆、南瓜、胡瓜、オクラ、サフラン(ベニハナ(Safflower))、綿花、イチジク、葡萄、桃、杏、小さな林檎、ザクロ、クワ、メロン、レモンおよびこの地方ではトランジュ(Tranj)と呼ばれるザボン等があった。ニンニクも勿論又、長い間栽培されて来た。もっと最近になってはズッキーニ(Zucchini)、トマト、カボチャ、ニラ葱および唐辛子および二種類のオレンジも記録されている。女性はハーブ、コリアンダー(Coriander)、コロハ(Fenugreek)、コショウ草(Peppergrass)、クミン(姫ウイキョウ、Cumin)およびベニハナ(Safflower)を育て、食用としてだけでは無く医療用や化粧用にも使って居た。

 

野菜畑は一般的にナツメヤシの株と株の間の空き地に見られた。果樹は小さな果樹園の中かナツメヤシの木立の端に植えられた。野菜や果物は自家用に限られた量が栽培されて居たに過ぎない。

 

ナジュド(Najdi)の集落のその他の主要な木としてはイスル(Ithl)と呼ばれるタマリスク(Tamarisk)があり、ふわーとした群葉は今でもありふれた光景である。この木はとても簡単に育ち、水遣りが要るのは最初の一年だけでその後は長い直根(Taproot)を地下水面まで伸ばす。この木は屋根の梁材、木材、薪や砂丘の安定化等の多くの用途に使われている。

 

家畜と言えば昼間は専門のやぎ飼いに任せている山羊や羊の小さな群を定住者は飼っている。リヤード(Riyadh)では二十世紀の初めにはやぎ飼いが何人かの飼い主から山羊や羊の小さな群を朝連れ出し夕暮れに町に戻って飼い主それぞれの裏庭の囲いに戻し、全体としては大きな群として世話をして居た。又、二十世紀の初めには多くの家族が小さな瘤のある種類の牛を家の近くの囲いに搾乳の為に飼って居た。集落には駱駝も運搬や騎乗や後には驢馬が一般的に使われた井戸の水汲みの為に何頭か飼われて居た。軍事的な緊急時には駱駝は沙漠から連れ込まれた。馬は高く尊ばれ普通はルアサ(Ru’asa’、為政者)の様な裕福な家族に飼われて居た。南ナジュドの方が北ナジュドよりも放牧地が豊かで有ったけれども馬は殆ど居なかった。それでも1862年にはイマームファイサルの厩舎だけで約300頭の見事なナジュド馬が町の北東にある厩舎に居り、更にイマームファイサルの息子達の厩舎もそれぞれ100頭位飼育して居たと言う。

 

6.5 遊牧および半遊牧の部族

 

ナジュドの遊牧民は単一の明確な方法での生活様式には従って居なかった。遊牧の範囲には多くの実妙な違いがあるがその中を純粋な遊牧と半遊牧の二つの様式に識別することは出来る。純粋な遊牧民は移動性があり、勢力もあった。その財産、移動性および戦闘能力は駱駝の群と何頭かの馬の所有が基盤となっている。純粋な遊牧民は高貴を意味するアシール(Asil)と自らを呼び、純粋な遊牧民の要素を持たない部族に属する者達を軽蔑して居た。

 

遊牧民は経済的には様々な主要な物資の供給を集落に頼って居た。純粋な遊牧民が町々を訪れるのは収穫の時で年に一度だけにする傾向があった。遊牧民は7月から9月までの夏の月間を除き一年の内の8ヶ月は牧草地を求めて移動し、夏の月間は自分達の支配する沙漠の井戸の周りに集まって居た。遊牧民が年間に放牧地を求めて遊牧する範囲はディーラ(Dirah)と呼ばれるそれぞれの部族の領域であった。幾つかのディーラ(Dirah)はナジュド(Najd)の広範囲に及び小さな部族の領域を包括して居た。降雨が無いと彼等は動き続けなければ成らなかったし、別の場合は他の部族によって取り代わられてしまった。良く知られたシリア沙漠(Syrian Desert)やイラク国境まで移動する太古からの様式の結果として純粋な遊牧民の移動は一般的にナジュド(Najd)を横切って南西から北東に向かう傾向があった。

 

とりわけ他からの支配からの自由の意識の強い純粋なベドウイン(Bedouin)は沙漠にあるものだけで自足生活をしていた。ベドウインの自治権の観念から生産が多いとしても制限された条件を甘受しなければならない定住生活を望む者達への軽蔑感をベトウインは持って居た。とは言えベドウインも定住生活の方が経済的に利益があると分かると急速にその生活様式を変えて定住化した。近代の歴史でベドウインは変化する環境に順応するのにどの位適応力があるかを示して来た。この様に昔でも部族の構成員は遊牧生活、半遊牧生活および定住生活の全ての微妙に違う生活様式を営んで来たが、ベドウインは定住しても多くの古い考えを保ち続けた。ベドウインがある種の商売を軽蔑し他の輸送業等を不相応に評価し続ける理由をこの事が説明している。

 

数世紀を通じて部族のナジュド(Najd)を横切っての北東への継続的な移動の一部として幾つかの部族は東ヒジャーズ(Eastern Hijaz)からアリヤト・ナジュド('Aliyat Najd)へ移動し、そこから下ナジュド(Lower Najd)へ移動して来た。ここでの環境と政治情勢次第で、ここに定住したりさらに東部地域そして肥沃な三日月地帯へと移動したりした。下ナジュドを十三世紀から十六世紀迄を支配していた古い遊牧民グループであるムガイラ(Al Mughirah)、ファドル(Al Fadl)およびカスィール(Al Kathir)はアリヤト・ナジュド('Aliyat Najd)や北部中央アラビアからやって来ていた。同じ様に十五世紀および十六世紀に下ナジュドに到着したジーイブ(Zi'b)、アナザ('Anazah)およびザフィール(al-Zafir)等の部族は東ヒジャーズの出身である。アナザ('Anazah)およびザフィール(al-Zafir)はそこにすでに定着していた部族や定着民に大きな圧力を掛けながら同じ時期に同じ方向からやって来た。

 

蛇と梯子の関係に例えられる絶える事の無い遊牧民と定住民の戦いは幸運に因る急な逆転もあり、遊牧戦士貴族はその勢力を十九世紀にハーイル(Hail)のシャンマル(Shammar)で起きた様に町へと広げて居た様だ。一方町の方でも自分達が強ければ自分の領域と放牧地を遊牧民から守るだけでは無く同盟関係を結ぶ事も貢ぎ物を納めさせる事もあった。遊牧民と定住民は永久に競合する関係であると思って居たが実際には次ぎに述べる様に根本的な相互依存関係にあった。

 

半遊牧民は純粋の遊牧民の仲間と較べ数も少なく移動性も小さく貧しかった。それにもかかわらず半遊牧民はしばしば遊牧民と部族的提携を共有していた。半遊牧民は主として羊飼いと山羊飼いであった。半遊牧民と言う言い方は実際に駱駝を幾頭か所有し余り農業に頼らない遊牧の牧羊生活者から定住の農業共同社会の単に家畜を世話している分家であった半定住の牧羊生活者までの多くの段階の家畜に頼る生活様式に及んでいた。半遊牧民の隷属関係の大部分は定住者が放牧の権利を持つ多少距離のある放牧地で羊飼いが家畜の世話をする為に雇われた少数グループであったと云う関係に過ぎない。この様な放牧地はヒマー(Hima)と呼ばれる保留地であり、イスラーム初期には一般的に知られた概念で定住民の権利はその勢力が衰えるに連れて近隣の遊牧民や定住民によって抗争を起こされた。これらの半遊牧民や半定住民は町に簡単に辿り着ける範囲で下ナジュド(Lower Najd)の涸れ谷や沈泥平地を放浪して居り、この状況は集落が小さく殆ど無く卓越した純粋の遊牧地域であった上ナジュド(Upper Najd)とは非常に異なって居た。

 

6.6 遊牧民と定住民の関係

 

下ナジュド(Lower Najd)では経済的圧力や定住民との家族関係が定住と半遊牧間での生活様式の一定の交替をもたらして居た。多くの定住しているガビィリイユン(Qabiliyyun)は遊牧民や半遊牧民の出身であり、牧羊生活者とその定住血族との部族的つながりは親密で有ることが多かった。血族関係は共通の政治的な利害を生み出した。遊牧民と定住民との提携は遊牧民/定住民と云う分割を越えて他の同盟グループと敵対する事もあった。

 

更に遊牧民と町民は経済的に幾つの基本的な方法でお互いに依存し合って居た。遊牧のベドウイン家族は日々の糧と生活用品の材料を飼っている(駱駝の)群や(羊、山羊)の群に頼って居た。しかし他の必需品は年毎に必要であり冬や春の間に余剰のチーズ、澄ませたバターや家畜を生産しそれらを集落に持って行き、デーツ(ナツメヤシの実)、米、小麦、コーヒー、カルダモン、武器、駱駝用品、家具や現金と交換した。ベトウインが交換する二次的な製品は原毛、織物やなめし皮であった。家畜の交換は集落からベドウインの宿営地にやって来る商人によってもしばしば行われて居た。同じ様に集落も牧畜製品の多くや輸送、畜力の多くをベドウインに頼って居た。

 

依然として遊牧民が定住生活に移行する過程では遊牧の相方としばしば衝突する異なった利害を作り出した。衝突の大部分は放牧と水の権利であった。強力な集落は常にその勢力圏を近隣の場所にヒマー(Hima)と呼ばれる放牧保留地作り出す事で広げて居た。それはベドウインの権利の侵害であった。同じ様に特に干魃の時には強力な遊牧グループが集落の井戸を奪い、どうにか耕作地として残っている農地にも放牧した。

 

この利害の対立は純粋のバダウィ(Badawi)が定住民に感じている軽蔑の念で強化された。定住民に依存している部分への感謝を妨げ、自分自身が自由で自治権のある存在であるとの観念を強化する態度。対照的に定住民はベドウインにもっと相反する感情を持って居た。多くの定住民が遊牧民の出身であったので遊牧生活の本質的な高貴性や沙漠の美しさの観念を共有して居たが同時に定住民はバダウィ(Badawi)を比較的な貧しさや知的素養の欠陥で軽蔑して居た。争いの時には定住民の気まぐれな忠誠心も悪名高いけれども軽蔑が確実にバダウィ(Badawi)の具体的な能力への恐れと入り交じった。

 

ナジュドの定住民は勇敢な戦士であり、ベドウインの襲撃を撃退する十分な能力も持って居た。この為に十分に組織されていれば大きな町はベドウイン部族と対等な立場で交渉出来たし、好調な場合はベドウインを支配した。イフワ(Ikhawah)と呼ばれる兄弟分賦課金が盗難にあった家畜やその他の所有物を取り戻してくる特定の兄弟分の遊牧民に定住民から時々支払われる事もあったが、大きなナジュドの町が実際の年貢を遊牧民に納めて居たと云う記録は無い。それでも町が特定の遊牧民グループと特殊な関係を発展させていた場合も多く、そのグループは町を自分達が必要な全ての物資を満たすのに利用する代わりに町の定住民を他の遊牧民から保護した。

 

村や小さな集落は対照的にベドウインの慈悲にすがり、基本的な庇護料として小麦、デーツや衣料等ををベドウインに貢ぎ物として支払うか単にベドウインの略奪される儘になるしかなかった。下ナジュドで稀な場合にはリヤード(Riyadh)の南のハーイル(Ha'ir)の様にベドウインが農園を所有し奴隷を使って耕作させていた。別な場合では定住民の血族がベドウインの為に耕作を行った。

 

ナジュドの遊牧民も定住民の関係では次ぎの二つの事が明白であった。

 

第一番目にナジュドの遊牧民も定住民も互いの存在無しには生存出来ない。両者の間では作物の栽培と家畜の飼育の両方を厳しい環境下での選択として実現出来た。むしろ遊牧民は相互にと云うよりは定住民の存在にもっと依存して居た。しかし部族に基づいた社会が変化し不安定な環境に従って適応する為に環境全体を利用できる方法と云う観点から遊牧/定住の全体を眺める事はもっと有用である。この方法でナジュド社会は全体としてその選択、行動と生存の機会を最大限として来た。

 

第二番目に、第一番目から出てきた結果であるが、片方の純粋な遊牧畜産業ともう一方の純粋な定着農業との間に厳重な区別は無かった。その代わりにその間のあらゆる可能な生活様式の段階的変化があった。環境が必要とすれば定住者、半遊牧民との間にはその生活様式を入れ替える為の不断の相互影響と機会があり、これがナフードの人々に困難な環境や政治情勢に遭遇した時に多くの選択を与えて居た。

 

この様に例えば定住者は自分達の集落で死に絶える状況は確実に起きたけれども死ぬよりは遊牧生活を選択しただろう。同じ様に例えば干魃等の困難な時代に遊牧民は大小にかかわらず集落に依存し、ついには自分達自身が専業の農民や商人に成る事もあった。気候の良い時代には政治的に支配する事で放牧民は特定の集落をその弱みにつけ込んで搾取し、その支配を整える過程で遊牧民の多くが品位を落とさないと見なされている農業、商業そして工芸等の定住生活の中に吸収されて行った。例外的な環境としては二十世紀初期のイフワーン運動(Ikhwan Movement)に伴った場合でバダウィ(Badawi)が「ディーン・ハダリ(al-Din Hadari)すなはちこの宗教は定住者の宗教である」と認めるに連れて宗教的な熱情がベドウインを定住する様に説得する要素と成った。

 

7. 改革の喚起(涸れ谷ハニーファの町(1600AD-1745AD)

 

7.1 ミアカル(Mi'qal)

 

西暦1446年にディルイーヤ(Dir'iyyah)が創設されて一世紀半位の間に下ナジュド(Lower Najd)の人口は急速に増大した。古い町は新しい定住者で復活したし、重要な新しい集落も登場し、新しい遊牧部族もこの地域に引きつけられて来た。西暦1600年迄に下ナジュド(Lower Najd)の人口はおそらくかつて無いほど増えて居た。この理由は疑いも無く気候環境条件の持続した改善であった。

 

新しい繁栄の兆候はマッカ(Makkah)のシャリフ(Sharifs)がこの地域に興味を示した事にも現れている。実際に西暦1578年以前の時期は外部勢力がこのナジュド地域にそこを通過する以上の興味を持った数少ない時代であった。西暦1517年にオスマン帝国(Ottomans)はエジプトとヒジャーズを支配しようと思い、その行動の中でシャリフ(Sharifs)の勢力と権威を維持する事で先代のマムルーク朝(Mamluk)のやり方を踏襲した。その直ぐ後にハサー(al-Hasa)のジャブリード(Jabrid)の勢力がアラビア湾への侵入したポルトガル(Portuguese)に遭遇し衰えた。インド洋貿易の脅威となるペルシア勢力とポルトガル(Portuguese)の両方に立ち向かうのを懸念していたオスマン帝国はその支配を南イラクそしてそこから東アラビアへと広げた。およそ西暦1550年にオスマン帝国はハサー・オアシス(al-Hasa Oasis)を占拠し、フフーフ(Hofuf)を州都とするラーサ(Lahsa)州を設けた。

 

下ナジュド(Low Najd)の繁栄と西および東アラビアにおけるオスマン帝国の支配と云う状況でマッカ(Makkah)のシャリフ(Sharifs)は自らの勢力を中央アラビアに広げ無ければならないと云う強い姿勢を示して居た。最初の記録に残る攻撃は1578年にミアカル(Mi'qal)集落に対して直接行われた。時のシャリフ・アブー・ヌマイ二世(Sharif Abu Numay II)の息子は50,000人以上の軍隊を持ってこの町を急襲し、多くを殺し、土地を略奪し捕虜を取り、この地に代官を擁立した。その前の200年間程度に及ぶアラビア湾貿易の繁栄を振り返るとハジュル(Hajr)の生き残りの集落の一つであるミアカル(Mi'qal)は明らかに十六世紀の中頃には重要な交易地の一つであった。この町はこの時のシャリフの侵略で潰されてしまったが、その名だけは今でも涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)の旧市街とバディイア(Badi'ah)の間のダフナ(Dakhnah)地区の西側の名前として生き残って居る。その代わりにその近くのムクリン(Muqrin)集落がリヤード(Riyadh)集落地域の中心の町としてその後100年以上も続いた。本当にムクリン(Muqrin)はリヤード(Riyadh)の近く或いは現実のその場所にあり、その名前は十七世紀の後半に徐々にリヤードに変わられてしまった。

 

三年後にシャリフ軍はハルジュ(al-Kharj)に侵入した。更に十六回余りの襲撃が十八世紀初期までに記録されている。これらはシャイク軍の遠征は集落へと同じ様に遊牧民にも向けられた。シャイク軍の目的は表面上ではこの地方に政治的支配を及ぼそうとした様に見える、しかしながら捕虜を取り共鳴する首領を擁立するだけの勝利では余りに一時的であり、持続する中央権威確立する事等は遠く及ばなかった。実際にはシャイク軍の遠征は部族の有徳な振る舞い特に巡礼達への妨害の節制を守らせ、部族への貢ぎ物の強要が主要な目的であった。この様な貢ぎ物が定期的に支払われる事は無くその徴収には新たな戦役を必要とした。

 

食糧は貢ぎ物の重要な構成要素であり、おそらくシャイク軍のもう一つの意図する目的であった。西暦1578年にミアカル(Mi'qal)のその周囲の地域の首領達は食糧を大量に集めて納入させられた。ナジュドの遠征に続いてデーツ(ナツメヤシの実)と小麦を運ぶ大規模な隊商がマッカ(Makkah)に戻って来た。例えば西暦1647年のウヤイナ('Uyaynah)への襲撃は三百頭の駱駝が小麦を運搬して来た。この出来事の状況から預言者の時代にも食糧がヤマーマ(al-Yamamah)からマッカ(Makkah)に運ばれたのを思い出させ、政治的結合に欠けていた十六世紀および十七世紀にはそれにもかかわらずもう一度人口が増え生産性が高かった事を示している。

 

7.2 環境条件

 

十七世紀からナジュド(Najdi)の住人に新しい圧力が掛かって来た。シャリフィアン(Sharifianシャリーフ)の遠征がその一つを成して居た。シャリフィアン(Sharifian)は遊牧民に東ヒジャーズ(Hijaz)および上ナジュド(Upper Najd)から下ナジュド(Lower Najd)へ移動する圧力を加えた。もう一つの大きな圧力は西暦1620年から1676年の間中央アラビアを苦しめた環境条件の悪化であった。これは遊牧民と定住民の多くにナジュド(Najd)から東方や北方への移住を余儀なくさせ、同じ時代に多くの放牧民に不安定な生活を捨て定住する事を強いた。十六世紀後半から十七世紀にナジュド(Najd)へ移動した遊牧部族にはザフィール(Zafir)、アナザ('Anazah)およびダワースィル(Dawasir)が居り、ムタイル(Mutayr)、バヌー・ハーリド(Banu Khalid)およびカフターン(Qahtan)が続いた。

 

例えば、ウトゥーブ族('Utub)が南ナジュドのアフラージュ(al-Aflaj)をダワースィル族(Dawasir)の圧力で離れアラビア湾岸に移動し、その後クウェイトやカタール半島北西部のズバーラ(Zubarah)を見つけ、最終的にバハレイン(Bahrain)を支配下に置いた。同じ様にディルイーヤ(Dir'iyyah)および涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)を含む下ナジュド(Lower Najd)から多くの定住民がバスラ(Basra)南西でアラビア湾の頭部のズバイル(Zubayr)に移動した。疑いも無くそこに引きつけられたのは一部には交易の可能性にあった。特に西暦1637-8年にナジュド(Najd)の干魃の後ナジュドの住人が大規模に移動して来た。ズバイル(Zubayr)は非常に急速にナジュド人の支配する隊商交易の重要な町となった。

 

西暦1620年から1676年の間に六回の干魃が記録されて居るが西暦1446年からそれ以前までの長い間に記録された干魃は四回だけであった。もっと前の時代のもっととぎれとぎれの記録を許容したとしてもこれは驚くべき増加であった。西暦1676年以降は少し改善され1738年迄に起きた干魃の記録は三回であった。しかしながら時代が下るに連れて災害の状況の記録は詳しくなり、警告無しに集落を麻痺させてしまう病気やイナゴ被害の様なその他の災害についても知る様に成っている。

 

7.3 ディルイーヤ(Dir'iyyah)とウヤイナ('Uyaynah)

 

ムラダ一門(Muradah)の中で如何に争ったかが十六世紀に分割し幾つかの家族がドゥルマー(Durma)アバー・キバーシュ(Aba al-Kibash)への移住をもたらしたかを既に理解した。この一門の分割は首領を争う競合同士として二つの主要なグループ(ムクリン(Al Muqrin)とワトバーン(Al Watban)或いはラビーア(Al Rabi'ah))があらわれる十七世紀中頃まで続いた。この競合関係は町の配置を反映していた。ナジュド(Najd)においては例えばディルイーヤ(Dir'iyyah)自身とガースィバ(Ghasibah)の様に一つの町が涸れ谷のそれぞれの岸に二つの地区として分かれている事が大変多かった。ガースィバ(Ghasibah)は西暦1446年に創設されたムラダ(Muradah)の元々の集落の一つであり、この町の最も古い地区と考えられて居た。

 

十八世紀初めまではディルイーヤ(Dir'iyyah)の為政者はワトバーン族(Al Watban)の出であった。西暦1720年の少し前からムクリン(Al Muqrin)族の競合分族のサウードイブン・ムハンマド(Saud ibn Muhammad)が首領の役を引き受け、それを行う間にサウド家(House of Saud)の名祖(なおや)となる創設者になった。サウードイブン・ムハンマド(Saud ibn Muhammad)は西暦1725年まで支配を行い、その支配はワトバーン(Al Watban)族の一員に引き継がれた。この為政者は翌年のウヤイナ('Uyaynah)に対する遠征の失敗の中で殺された。その後、ムクリン(Al Muqrin)族のサウードの息子のムハンマドが首領の地位を奪い、ワトバーン族(Al Watban)を町から追放した。ワトバーン族(Al Watban)はズバイル(Zubayr)へ赴き、そこで親族と一緒になりついには為政者家族と成った。

 

ルアサ(Ru’asa’、為政者)の間の闘争にもかかわらず、ディルイーヤ(Dir'iyyah)はこの時代を通じて生長し、繁栄続けた。ディルイーヤ(Dir'iyyah)およびドゥルマー(Durma)は両方とも農業生産とその廉価さで注目され、ディルイーヤ(Dir'iyyah)は涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)の集落の中でウヤイナ('Uyaynah)に次ぐ第二の集落と成って居た。

 

十七世紀の中頃までに涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)の北の端にあるウヤイナ('Uyaynah)はその勢力が更に北方のサーディク(Thadiq)まで広がり、南ナジュドで一番領土の拡張した町と成って来た。フライマラー(Huraymila)との反目でディルイーヤ(Dir'iyyah)と同盟したが西暦1680年代にその関心を南方へ転じ南の隣人の領域を侵略した。その後はディルイーヤ(Dir'iyyah)フライマラー(Huraymila)およびハルジュ(al-Kharj)はウヤイナ('Uyaynah)に対抗する共同戦線を張った。しかしながらウヤイナ('Uyaynah)は下ナジュド(Lower Najd)で最強の町として残った。末期にはハサー(al-Hasa)の為政者であるバヌー・ハーリド(Banu Khalid)と同盟し、バヌー・ハーリド(Banu Khalid) は十八世紀初期にウヤイナ('Uyaynah)のディルイーヤ(Dir'iyyah)およびハルジュ(al-Kharj)への攻撃の援軍にやって来た。

 

西暦1660年代にはウヤイナ('Uyaynah)はすでにハサー海岸(Hasa Coast)から反物(Piece Goods)を輸入する大きな商業センターであった。十八世紀の初めまでにその建物や農業開発は中央アラビアの驚異であった。しかしながら西暦1725/6年にウヤイナ('Uyaynah)は伝染病に見舞われた。この伝染病は全ナジュド(Najd)で当時は最も敬意を払われて居たアブドゥッラー・イブン・ムハンマド(Abdullah ibn Muhammad)を含む多くの人々の命を奪った。しかしながらディルイーヤ(Dir'iyyah)の人々によるこの町を強奪しようと云う企てを防ぎ、この町は次第のその信望を取り戻した。この頃までにシャイフ・ムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブ(Shaykh Muhammad ibn 'Abd al Wahhab)は改革運動を始め、それが再びナジュド(Najd)がイスラーム初期から築いて来た最も強い宗教的権威に成って来た。

 

7.4 ムクリン(Muqrin)からリヤード(Riyadh)

 

前述の様にリヤード(Riyadh)集落地区の主要な町としてのリヤード(Riyadh)の前身はムクリン(Muqrin)であった。ナジュド(Najdi)のイスラーム初期のウラマー('Ulama')15人の内の2人がこの時代にここに住んだ事が記録に残って居り、ムクリン(Muqrin)は十六世紀までに確かに既に或る程度の重要さを担って居た。その隣町のミアカル(Mi'qal)とその他の村々と共にムクリン(Muqrin)はこの沈泥平地の地域、農園および昔はハジュル(Hajr)として知られて居た集落の継続しおそらくは途切れない占有を象徴していた。

 

ミアカル(Mi'qal)が西暦1578年のマッカ(Makkah)のシャリフ(Sharif)の遠征で生き残れなかった一方で、十七世紀ムクリン(Muqrin)はその重要性が増した事を示唆する様に資料の中に頻繁に記述されて居る。ここには一般に有るように支配をめぐって為政者一門の競合関係があった。十七世紀末までは為政者家族はハニーファ(Hanifah)一門出身の数少ない生き残りの一つと言われたアバー・ザルア(Al Aba-Zar'ah)であった。

 

十七世紀中にムクリン(Muqrin)周辺の農園と集落の地域はリヤード(Riyadh)の発祥として参照される様になり始めた。リヤード(Riyad)(単数はラウダ(Rawdah))は単に沈泥平地、窪地そして拡張され果樹園を意味したのでこの町の周囲の地域は非常に長い間おそらくこの名で呼ばれて来た。ムクリン(Muqrin)はディルイーヤ(Dir'iyyah)の近くの町であり、この当時は粘土で出来700軒余りの家があった。リヤード(Riyadh)地域は両方の町と幾つかの地区に分かれ、その中にマンフーハ(Manfuhah)やミアカル(Mi'qal)含まれていた。西暦1688年に「アリード(al 'Arid)地域のリヤード(Riyadh)地区特にムクリン(Muqrin)が致命的な疫病に襲われた」との記録があり、当時はムクリン(Muqrin)はリヤード(Riyadh)と呼ばれる地域の中の町であったのが分かる。

 

西暦1726年までにアバー・ザルア(Al Aba-Zar'ah)に支配された町がリヤード(Riyadh)と呼ばれる様に成り、前述した様にマンフーハ(Manfuhah)の近くの古代からの町の為政者家族でバヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門の生き残りの一つと考えられているシャアラーン(Al Sha'lan)の一員のディハーム・イブン・ダウワース(Diham ibn Dawwas)がリヤード(Riyadh)の為政者と成った。ディハーム・イブン・ダウワース(Diham ibn Dawwas)の父イブン・アブドゥッラー(Abdullah)は西暦1682年までマンフーハ(Manfuhah)を支配して居たが、西暦1726年に没するとその後継者をめぐってルアサ(Ru’asa’、為政者)の間で典型的な争いが続いた。遂に従兄弟がダウワース(Dawwas)の息子達をマンフーハ(Manfuhah)から追放して後継者と成り、首領の地位を奪い取った。前述の様にディハーム(Diham)とその兄弟達は当時アバー・ザルア(Al Aba Zar'ah)族のザイドイブン・ムーサー(Zayd ibn Musa)に支配されて居たリヤード(Riyadh)に逃れた。

 

西暦1733年にディハーム(Diham)の姉妹の一人を母とする後継者と成る子供を残してザイド(Zayd)は殺された。フマイイス(Khumayyis)と云う名のザイド(Zayd)の奴隷が一時的に為政者と成ったが34年後に殺されるのでは無いかと云う恐怖からリヤード(Riyadh)からマンフーハ(Manfuhah)に逃れた。この時点でディハーム・イブン・ダウワース(Diham ibn Dawwas)は自分の姉妹の子供を擁護すると装ってリヤードの支配権を乗っ取った。

 

ディハーム・イブン・ダウワース(Diham ibn Dawwas)はそれから西暦1773年までリヤード(Riyadh)を支配続けた。この殆どの全期間にわたってディハーム・イブン・ダウワース(Diham ibn Dawwas)とその家来達は隣の勢力を増しつつあるディルイーヤ(Dir'iyyah)に激しい抵抗を示した。何といってもナジュドの町では当たり前であった自分の足元の隣人との戦争と同居していたにもかかわらずディハーム・イブン・ダウワース(Diham ibn Dawwas)支配下のリヤード(Riyadh)は競合相手のマンフーハ(Manfuhah)を追い越してハサー(al-Hasa)からの交易を引きつけ繁栄した重要な中心に成って来た。しかしながら改革運動とディルイーヤ(Dir'iyyah)のサウード(Al Saud)の覇権に対して反対し続けた為にディハーム・イブン・ダウワース(Diham ibn Dawwas)はこの地方の年代史には悪い印象で記述されている。

 

ディハーム・イブン・ダウワース(Diham ibn Dawwas)は卑劣であるにせよ行動を起こすだけの力を確実に持っていたし、この時代の標準ではそれは非道では無かった。ディハーム・イブン・ダウワース(Diham ibn Dawwas)は最高の為政者では無かったがそんなに悪くも無かったのも確かであり、全ての為政者同様に自分の支配圏の中で反抗に直面したけれどもディハーム・イブン・ダウワース(Diham ibn Dawwas)の個性はその地位を維持するのに十分に強かった。ディハーム・イブン・ダウワース(Diham ibn Dawwas)の強固な指導の下にリヤード(Riyadh)は始めてその名声を得た。ディハーム・イブン・ダウワース(Diham ibn Dawwas)が西暦1773年に没し、リヤード(Riyadh)がディルイーヤ(Dir'iyyah)に降伏した後、1820年にエジプト(Egyptian)の占領者が守備隊の町として選び、1824年にトゥルキーイブン・アブドゥッラー・アール・サウード(Turki ibn Abdullah Al Saud)が新サウジ公国の首都とするまでの間、リヤード(Riyadh)はもう一度その存在が曖昧に成ってしまった。ディハーム・イブン・ダウワース(Diham ibn Dawwas)はリヤード(Riyadh)作りに貢献し、多分最初の城塞化された町ではその城壁が幾つかの散らばって居た集落を囲い込んだ。ディハーム・イブン・ダウワース(Diham ibn Dawwas)は又、宮殿と呼ばれる中央カスル(Qasr)を政府の所在地として最初に建設した人物だと言われて居る。その場所は多少の改築や拡張はあったものの十九世紀から二十世紀初めまで残って居た。しかしながら、「ディハーム・イブン・ダウワース(Diham ibn Dawwas)の作った町が本当に後世の町と同じ場所であったのか?」、「ディハーム・イブン・ダウワース(Diham ibn Dawwas)が最初にそれを城塞化したのか?」そして「それはムクリン(Muqrin)の古い集落をその中に収容したのか?」等の幾つかの疑問もある。

 

確実であるのは西暦1745/6年の戦役期まではリヤード(Riyadh)の住民がその中にディハーム・イブン・ダウワース(Diham ibn Dawwas)を包囲した為に、ディハーム・イブン・ダウワース(Diham ibn Dawwas)は周囲を囲い込んだ城壁と要塞化された宮殿を意味するリヤード(Riyadh)のカスル(Qasr)の中で擁立されていた。西暦1746-7年にこの宮殿は町の中の城塞であるカルア(Qal'ah)の中に位置して居り、町自体も城塞に城塞で囲まれ、その城壁は少なくとも西暦1765/6年迄は塔を備えていた。

 

ディハーム・イブン・ダウワース(Diham ibn Dawwas)のカスル(Qasr)は十九世紀にイマース・トゥルキー(Imam Turki)とファイサル(Faisal)が建てたと同じ場所に建てられ、この城壁の痕跡はこの町のある部分にまだ残っている。ディハーム・イブン・ダウワース(Diham ibn Dawwas)の市は後に除かれたミアカル(Mi'qal)の様な幾つかの小さな集落を包み込んで居たと思われ、その位置は外周防護地域を備えた後の市の中核部分に当たる場所にあり、全盛期のディルイーヤ(Dir'iyyah)の集落と全く同じ様にリヤード(Riyadh)も集落と果樹園全てを一つの壁で包み込んだ市であった。

 

西へ延びる外周壁は涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)を下って来るディルイーヤ(Dir'iyyah)の戦士による居住区への攻撃の恐れに備える意味があった。アバー・ザルア(Al Aba-Zar'ah)族のザイドイブン・ムーサー(Zayd ibn Musa)のリヤード(Riyadh)は或る程度要塞化されては居たが、マンフーハ(Manfuhah)およびディルイーヤ(Dir'iyyah)との敵対を考えてディハーム・イブン・ダウワース(Diham ibn Dawwas)によって西暦1745-6年以前にその要塞化が拡張補強された。

 

リヤード(Riyadh)の台頭と共にムクリン(Muqrin)の古い町は実際に記録から消え、拡張する新しい市に吸収されてしまい、その結果ディハーム・イブン・ダウワース(Diham ibn Dawwas)のリヤード(Riyadh)の在った場所も新しい市に占拠されてしまった。

 

ディルイーヤ(Dir'iyyah)、ドゥルマー(Durma)、ウヤイナ('Uyaynah)およびフライマラー(Huraymila)の連合軍は西暦1748年リヤード(Riyadh)を攻撃した。連合軍はリヤード(Riyadh)に行き、涸れ谷バサー(Wadi Batha)の東岸のウド(al-'Ud)と多分涸れ谷バサー(Wadi Batha)の西岸で今日ではアタイカ('Ataiqa)と呼ばれているブンヤ(al-Bunya)の間に来る迄涸れ谷ウツル(Wadi al-Wutr)すなはち涸れ谷バサー(Wadi Batha)を通り、東から近づいて行った。この日はムスリムの戦士が町の人々を遠くから狙撃しリヤード(Riyadh)で何人か死亡し多くが傷ついた事を除けば戦闘は無かった。最後の日に共同社会すなはちディルイーヤ(Dir'iyyah)の戦士とその同盟軍はマンフーハ(Manfuhah)に戻り意見を交換し再度リヤード(Riyadh)に戻るのを決めるまでそこで三日間滞在した。同盟軍は攻撃を準備し、二手に分かれた。一つのグループはシヤ(Siyah)に赴き激しい戦闘の後そこの財宝を奪った。もう一つのグループはムクリン(Muqrin)に行き、そこに入った。町の人々はディハーム・イブン・ダウワース(Diham ibn Dawwas)の宮殿に集まり獰猛に戦った。二つのグループの間は暫く激しく戦かわれ、ムスリム(Muslims)が破れ、25名の戦士が殺された。

 

もしシヤ(Siyah)がマンフーハ(Manfuhah)から来た攻撃者の目標に成ったのであればマンフーハ(Manfuhah)はリヤード(Riyadh)市の南側ないし南西側にあったのだろう。この戦闘ではハッキリとムクリン(Muqrin)がリヤード(Riyadh)市の中であった事を暗示し、攻撃者はムクリン(Muqrin)に入りディハーム・カスル(Diham's Qasr)に集まった防衛軍に立ちはだかれた。これからムクリン(Muqrin)がリヤード(Riyadh)の中心か、それに隣接する部分であった事が分かる。十八世紀初めにムクリン(Muqrin)は古い集落の範囲を越えて大きな地域に広がりこの地域の古い名前がその後全体としてこの広がった町の中心として受け入れられる様に成った。

 

7.5 ナジュドでの宗教者と知識人の復活

 

ムクリン(Muqrin)がリヤード(Riyadh)と発展した十五世紀から十八世紀に至る全時代を通じて下ナジュド(Lower Najd)は大きな都会化に向かう移行社会であった。人口再編成の一般的過程の一部として集落はまず繁栄した地方の中心として創設された。これらの集落は新たな集落の基礎として大きく拡大した。十七世紀および十八世紀初めでウヤイナ('Uyaynah)、ディルイーヤ(Dir'iyyah)およびハルジュ(al-Kharj)のディラム(Dilam)の様な一番強力な町々は自らの立場をそれぞれの地域の権威として主張する都市国家として生長し始めた。増大する都市化と共に、前章で述べた様に学ぶ事とイスラーム原理に基づく善政の原則への関心が高まって居た。

 

この過程は十六世紀初期の下ナジュド(Lower Najd)へのジャブリード(Jabrid)の影響まで遡れる。イスラーム法に精通した15人のナジュド(Najid)の学者を意味するウラマー('Ulama')がこの時代に記録されている。ワシュム(Washm)にある古いタミーム(Tamim)の町であるウシャイキル(Ushayqir)がその15人の内の9人以上が共に学ぶ主要な中心となり、又、2人のムクリン(Muqrin)1人のウヤイナ('Uyaynah)がそれに続いた。ムクリン(Muqrin)1人を含む15人の内の5人はダマスカス(Damascus)あるいはカイロ(Cairo)をイスラーム法のハンバリ(Hanbali)学校の指導的学者の下で学ぶ為に訪れた。

 

次の世紀にはウシャイキル(Ushayqir)15人およびウヤイナ('Uyaynah)6人を含む28人のウラマー('Ulama')が記録されている。それらのウラマー('Ulama')の内の何人かは判事であるカーディース(Qadis)を勤める為にナジュド(Najd)の他の町に移動した。ムクリン(Muqrin)もその内の一人を受け入れて居た。他のウラマー('Ulama')は彼等の町で教育したり説教したりしたので、宗教的意識と学ぶ事が町人に広まるのを刺激した。十八世紀までにナジュド(Najd)とハサー(al-Hasa)はシリア(Syria)とエジプト(Egypt)と共にハンバリ(Hanbali)学徒の重要な中心と成った。

 

偉大な改革者シャイフ・ムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブ(Shaykh Muhammad ibn 'Abd al-Wahhab)がその伝道を抱いたのはナジュド(Najd)の町人の間に向学心が増して居たこの背景に逆らう事であった。シャイフ(Shaykh)の改革運動の衝撃で十八世紀には更に多くの町に移住して影響力を強めたウラマー('Ulama')の数がさらに増し、52人以上が記録されて居る。集落が人口と複雑さを増すにつれて法律を学んだ学者は祈祷の指導者であるイマーム(imams)、イスラーム法の判事であるカーディース(Qadis)や特に為政者への法律顧問であるムフティー(Muftis)等幾つかの役割を果たす為に必要とされた。これらの学者は法律を強調し法律手引きの提示する等争論を納める役割を提供した。

 

幾つかの集落では十八世紀前半まで、シャイフ(Shaykh)自身にウヤイナ('Uyaynah)で起きた様に、ウラマー('Ulama')は為政者の支配に都合が悪かった為、為政者と対立し、追放されていた。しかしながら十八世紀後半の三分の一にシャイフ(Shaykh、為政者)が提議した原則に基づき第一次サウジ公国の創設までにナジュド(Najd)ではイスラーム法が完全に行き渡って居た。シャイフ(Shaykh)の経歴ではウラマー('Ulama')が政治体制の中で為政者と同じ地位と権威を獲得し点において特筆できる。この関係はディルイーヤ(Dir'iyyah)の政治体制の形態としては始めて実現した。

 

改革運動以前のナジュド(Najd)の一般的な住人の間の宗教実践にはイスラームの教訓の遵守には著しいあいまいさがあり、様々な多神教徒(Pagan)の迷信が残されていた事が分かる。人々はディルイーヤ(Dir'iyyah)近傍出身の預言者の仲間であった者達の墓を崇め、とある木々を多産信仰の一部としてお参りし、ある一つの洞窟を崇拝していた。ハルジュ(al-Kharj)出身の聖者が自分達の望みを叶えてくれる力を持つ神秘的な行者としてその信者達にあがめられていた。この聖者はめくらであると言われていたが付き添い者を必要とせず、ディルイーヤ(Dir'iyyah)とリヤード(Riyadh)を含む近隣の町々の民と為政者に忠誠を強要していた。

 

しかしながらこの様な信仰が実践されて居た事から「中央アラビアが十八世紀以前には意味ある形でイスラーム化されては決して居なかった」とするのは言い過ぎである。改革運動はこの時代のイスラーム世界を象徴しているし、ナジュド(Najd)はこの点に関して珍しくは無かった。これまで概要を述べて来た改革運動以前の三世紀の間ではイスラーム的傾向への逆流の強まりに同じ様に重要性が置かれていた。又、例えば西暦1500年前後にハサー(al-Hasa)のジャブリード為政者(Jabrid Amirs)および西暦1630年にディルイーヤ(Dir'iyyah)の為政者によって行われたナジュド(Najd)が参加した巡礼が無視されては成らない。ナジュド(Najd)の町々の民は、例えシャイフ(Shaykh)が「彼等を真の信者であると認めるにはその信仰と行為が厳しい規範に余りに欠けて居る」と主張したとしても、自分達がムスリムであると確信していた。しかしながらベドウイン(bedouin)に関してはこの事は異なって居た。ベドウインは「神の存在と単一であり、ムハンマド(Muhammad)がその預言者である」とのみ信じていた様だ。規則的な祈りやラマダン(Ramadan)の断食などその他全ての宗教儀式は絶え間ない名誉であった。ベドウインの生活は慣習法で支配され、シャリーア(Shari'ah)法、クルアーン(Qur'an)および一般的にはベドウインでは無く定住民の為の宗教を信仰して居た。

 

7.6 改革運動の誕生

 

シャイフ・ムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブ(Shaykh Muhammad ibn 'Abd al-Wahhab)は西暦1703年にウヤイナ('Uyaynah)で生まれた。シャイフ(Shaykh)はワシュム(Washm)のウシャイキル(Ushayqir)のウハバ(Wuhabah)の学問的なタミーム(Tamim)族の出身であり、前世紀およびそれ以前のナジュド(Najd)での二つの学問の主要な中心のまさに産物であった。シャイフ(Shaykh)の祖父はウヤイナ('Uyaynah)のカーディー(Qadi)およびムフティー(Mufti)であったし、その父はその時代の最も著名なウラマー('Ulama')であり西暦1713年から1726-7年までウヤイナ('Uyaynah)のカーディー(Qadi)を勤めた。父はその為政者と意見が合わずウヤイナ('Uyaynah)を離れ、フライマラー(Huraymila)に移ってやはりそのカーディー(Qadi)となった。

 

若いムハンマド(Muhammad)はその学問に対しては早熟であり、西暦1723年にナジュド(Najd)を離れ、更に勉学する為にヒジャーズ(Hijaz)とバスラ(Basra)を訪れた。ムハンマド(Muhammad)はそれまでの多くのウラマー('Ulama')を引きつけたハンバリ(Hanbali)学の中心であるダマスカス(Damascus)でも勉学しようと考えて居た。しかしながらその過激な思想とその影響力が増して来た事でバスラ(Basra)から放逐され、無一文でズバイル(Zubayr)を通りハサー(al-Hasa)まで旅をし、そこで更に自分の勉学を続けた。そこからフライマラー(Huraymila) に居る父の下に戻り父が没する西暦1740年までそこにとどまった。

 

それから自分の思想を熱心にフライマラー(Huraymila)で普及させ、確立していたウラマー('Ulama')から強く反対された。ムハンマド(Muhammad)の教えに対する反対の首謀者はリヤード(Riyadh)のカーディー(Qadi)のイブン・スハイム(Ibn Suhaym)であった。ムハンマド(Muhammad)はウヤイナ('Uyaynah)の為政者ウスマーン・イブン・ハマド・ムアンマル('Uthnab ibn Hamad Al Mu'ammar)の保護を求める事にした。ムハンマド(Muhammad)は歓迎され、為政者は新しい運動に強い支持を与えた。新しい運動は直ぐにウヤイナ('Uyaynah)を崇拝の正しい実践と順番をもって清めた。しかしながらムハンマド(Muhammad)すなわちシャイフ(Shaykh)の活動のニュースはハサー(al-Hasa)の為政者であるバヌー・ハーリド(Banu Khalid)に伝わり、バヌー・ハーリド(Banu Khalid)はもしシャイフ(Shaykh)の新しい運動を中止しなければウヤイナ('Uyaynah)に支払っている助成金を引き上げると脅かした。これはウヤイナ('Uyaynah)に取って受け入れがたい犠牲であったのでシャイフ(Shaykh)はそこを引き払う様に要求された。シャイフ(Shaykh)はそれに従い、ディルイーヤ(Dir'iyyah)を次の目的地に選んだ。

 

新しい運動の結果はシャイフ(Shaykh)とディルイーヤ(Dir'iyyah)の為政者ムハンマド イブン・サウード(Muhammad ibn Saud)との間の政教契約であった。シャイフ(Shaykh)が支持と助言を保証する代わりに、為政者はシャイフ(Shaykh)の教義を政治的に軍事的に支持する事に同意した。これは西暦1745年の事であった。これが第一次サウジ公国の勢力台頭の始まりと同時にと為政者と為政者を特徴付ける宗教的指導者の間での協力の始まりであった。

 

これは運動の創設者を鑑みてワッハーブ派(Wahhabis)と呼ばれているが、軽蔑的な意味を無くしてから長いけれども、この名前はこの運動の中傷者達によって付けられた一つである。シャイフ(Shaykh)の信奉者達は自分達を単にムスリム(Muslims)と呼んで居り、自分達を周囲のイスラーム教世界の異端と自分達が考えている人々と遠ざかって居た。シャイフ(Shaykh)の信奉者達のもう一つの呼び名は唯一神信仰者を意味するムワッヒドゥーン(Muwahhidun)である。

 

改革運動の基本的な要旨は初期イスラームの根本である厳格さへの復帰、宗教的な革新の拒否、解釈の限定であった。ムスリム(Muslims)達はイスラーム法の四つ正統な学校の最も保守的な九世紀の創始者であるイブン・ハンバル(Ibn Hanbal)の教えを信奉した。ムスリム(Muslims)達は西暦1262 - 1328年のシリアン・ハンバリイブン・タイミイヤー(Syrian Hanbali ibn Taymiyyah)の行跡を通してイブン・ハンバル(Ibn Hanbal)の教え近づこうとした。シリアン・ハンバリイブン・タイミイヤー(Syrian Hanbali ibn Taymiyyah)はクルアーン(Qur'an)、スンナ(Sunna)或いは預言者の言い伝えに迷う事無く拘泥し、聖者崇拝、聖堂崇拝およびその他の革新を非難した。改革の中心教義は単一神信仰或いは神の単一性を意味するタウヒド(Tawhid)であり、従って自分達をムワッヒドゥーン(Muwahhidun)と呼んだ。神と較べ、近づき又は提携出来る物は無い。従って聖人のとりなし又は預言者の手引きを通しての神を崇拝しようとするのは多神教同様に異端であり、死に値する。これがムスリム(Muslims)達の聖堂や墓の破壊への厳格な熱情である。

 

唯一神信仰者を意味するムワッヒドゥーン(Muwahhidun)達の共同社会の目的は神の法を適用する事であった。神の法の前では全員が平等である。為政者の責任は神の法が厳格に適用されて居る事を保証し、全ての民に神の法を広める事であった。従って、改革運動の好戦的な面と早い時代の聖戦すなはちジハード(Jihado)の代わらぬ状態があった。為政者の行動は宗教的助言者であるウラマー('Ulama')の指導を受け従順の主張者と呼ばれるムタッウィ(Mutawwi)すなはち宗教警察の役割から強化されなければ成らなかった。この様な共同社会では宗教行事と世俗行事の間に知覚できる違いは無かった。ディルイーヤ(Dir'iyyah)は厳しい試練であり、その中でこれらの宗教教義に対して政治的社会的表現を与える為の試みが行われて居た。

 

後書き

 

ナフード(Nafd)は近代まで一般には近寄り難い三方を長大な砂丘地帯で囲まれ他の一方が断崖を持つ山岳地帯で閉ざされたこの地方は禁断の地であった。それもかかわらず東西交易の重要な隊商路が通って居た。その様な地方の歴史に私が興味を持ち始めたのは冒頭でも述べた様に、これまでワッハービ運動或いは第一次サウジ公国以前の歴史が余りにもサウジアラビアの内外で紹介されて居ない為であった。但し、銅石時代以前の考古学についてはサウジアラビア王国教育省考古博物館局の資料を始め、かなり出版物もあるのでそれ以後の資料を探して居た。たまたま、当時勤務していた石油活性化センターのリヤード事務所の閉鎖作業中にウィリアム・ファセイ (William Facey)著の「古都リヤード」と云う本を偶然に手に入れた。読み進める内に私が知りたいと思っていたこの間の記述がかなり有るのが分かった。

 

この内陸沙漠は気候の乾湿にその社会の栄枯を大きく左右されて来たばかりでは無く、隣人や部族同士が常に殺戮戦い続ける反目の増大も大きくその盛衰に影響して来た。産業としては放牧畜産とオアシス農業であり、その主要産物として駱駝とナツメヤシの存在を抜かしてはこの沙漠社会の生存は有り得なかった。

 

この沙漠社会にも曖昧ではあるにせよ土地占有の封建制度と士農工商に近い身分制度があり、長く戦国時代が続いていたのは興味深い。西暦1745年のサウジ公国の設立を日本における1603年の江戸幕府の設立と考えるのか或いは1185年の鎌倉幕府の設立と考えるか難しい。私は恐らくその中間の様な気をする。又、この社会の特徴である遊牧民の北へ東へと移動する傾向と二大部族であるアラム人(Aramaeans)血統のアドナーン族と南セム族血統のカフターン族がどの様な起源を持ち、どの様に分族化し、混じり合い、今日の部族と成ったのかについても機会があれば調べてみたい。

 

今回は名前と地名が多すぎて日本語に親しみやすい渾名を必ずしも探せ出せ無かったので意味の無い名の羅列の部分が多くなってしまったが紹介の終わりに可能な範囲で地名解説を記述した。又、ウィリアム・ファセイ (William Facey)の資料の引用や資料の中味の議論は割愛し、正確さに欠ける部分もあるかも知れないが、歴史の流れを辿る事に重点を置いたのでご了解戴きたい。

 

冒頭にも書いたがナジュドの歴史の中核となる涸れ谷ハニーファの岸辺の崖上に長く住んで居たにもかかわらず、その事に気が付かなかった事が大変に残念である。知らないとは言え、涸れ谷ハニーファのリヤードから上流部の支流についてはその源頭部まで殆ど全て踏破しているのが私とってはせめてもの幸いである。

 

スダイル氏著の「ジャウフ」中でもアラビアの歴史で隊商の占めた役割の大きさとその交易路を中継したオアシスの存在が大きい事が述べられている。言い換えればアラビアの歴史は巡礼も含め隊商とその順路のオアシスの歴史である。又、それを可能にさせた駱駝と云う沙漠の為に創造された動物と干魃でも実りがあり保存性の優れたナツメヤシと云う植物の存在が欠かせない。その両者が存在する事で中継地と輸送手段が確保され、海のシルクロードに一部を成す重要な隊商路を提供出来、その中継貿易の利益で沙漠にも古代都市が栄えて来た。又、時代が下ると隊商路は巡礼路としても使われた。

 

この様な各地方毎の歴史を横に結んでアラビア半島全体の歴史を描けたら面白いと思う。日本人が中国の西域にあこがれ、様々な著作を出している様に英仏独等の西欧人のアラビアへの関心は高い。従って、その様な本は西欧で既に出版されている可能性もあるので見つかれば翻訳してみたい。

 

以上


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